隠し持っていた理事長と、知らずに塗られたたづなさん(V8番外)

封印のはずが

「……これは、封印であるッ!」

秋川やよい理事長は、理事長室の机の前で力強く宣言した。

机の上には、小さな白い容器。

ラベルは剥がされている。

だが、その正体を理事長は知っていた。

最強メンタル&フィジカル計画V8。

夏合宿対応型・汗量反応超微香料サンスクリーンクリーム。

本来なら、たづなさんの管理下に置かれるべき危険物である。

いや、危険物と言うには語弊がある。

目的はまとも。

性能も高い。

むしろ日焼け止めとしてはかなり優秀。

ただし、ウマ娘の耳と首元と汗と嗅覚とスピカさん概念に対して、致命的に相性が悪かった。

だから、持ち込み禁止。

合宿使用禁止。

赤ペン先生不在時の香料開発禁止。

そう結論が出た。

出たはずだった。

「……しかし」

理事長は白い容器を見つめる。

「日焼け止めとしての性能確認は、まだ十分ではないッ!」

理事長の瞳がきらりと光った。

危険性を把握するには、正確な検証が必要! つまりこれは、学園運営上必要な業務確認であるッ!」

完全にいつもの言い訳だった。

ただし今回は、ひとつ違った。

理事長は、自分で塗るつもりではなかった。

なぜなら、自分で塗るとたぶん落ちる。

それは理事長にもわかっていた。

では誰に塗るか。

そこで、理事長の視線が、部屋の隅に置かれている来客用の化粧品セットへ向いた。

以前、外部来客対応用に用意された、無香料のハンドクリームや保湿クリームの類。

その中に、ラベルを剥がしたV8をそっと紛れ込ませる。

「……自然。極めて自然であるッ」

理事長は頷いた。


▼ 知らずに塗られたたづなさん

そこへ。

コンコン、と扉が鳴った。

「理事長、失礼します」

駿川たづなが入ってきた。

いつもの緑の制服。

きっちり整えられた髪。

手には資料の束。

「夏合宿の最終確認資料をお持ちしました。警備導線、救護体制、海辺トレーニング時の熱中症対策、それから例の持ち込み禁止リストの更新分です」

「う、うむ! ご苦労ッ!」

理事長の耳が、帽子の下でわずかに動いた。

たづなさんは、その一瞬を見逃さなかった。

「……理事長?」

「な、何でもないッ!」

「そうですか?」

たづなさんの目が細くなる。

この時点で、すでに少し怪しい。

だが、理事長は強引に話題を変えた。

「ところで、たづな君! 最近、手荒れなどはないかねッ!」

「手荒れ、ですか?」

「うむ! 書類仕事も多い! 冷房も入り始めた! 肌の保湿は重要であるッ!」

「お気遣いありがとうございます。ですが、特には――」

「これを使うとよいッ!」

理事長は、机の上の化粧品セットから、例の白い容器を取り出した。

ラベルはない。

見た目は普通のクリーム。

香りもほぼない。

たづなさんは、少しだけ首を傾げた。

「保湿クリームですか?」

「そうであるッ! 無香料に近い、たいへん優秀なクリームであるッ!」

嘘ではない。

近い。

たいへん優秀。

ただし、日焼け止めである。

そしてV8である。

「……理事長」

「な、何かねッ!」

「本当に普通のクリームですか?」

「当然であるッ!」

理事長は堂々と答えた。

堂々としすぎていた。

たづなさんは少し疑った。

だが、容器からは強い匂いもしない。

見た目も普通。

机の上にあるのも来客用化粧品セット。

しかも理事長は、何やら妙に真剣な顔をしている。

たづなさんは、ため息をついた。

「……少しだけですよ」

「うむ! 少しだけでよいッ!」

理事長の目が輝いた。

たづなさんは、その輝きを見て少し嫌な予感がした。

だが、もう遅かった。

理事長は、クリームを指先に少量取り、たづなさんの手の甲へ伸ばした。

「失礼するッ!」

「自分で塗りますから」

「いや、量の確認もあるのでなッ!」

「量の確認?」

「業務上の確認であるッ!」

「……」

やっぱり怪しい。

しかし、塗られた感触は悪くなかった。

すっと伸びる。

白浮きしない。

べたつかない。

少しひんやりしている。

香りは、ほとんどしない。

「……確かに、質感はいいですね」

「そうであろうッ!」

理事長の声が弾む。

「べたつきも少ないですし、書類仕事の邪魔にもならなそうです」

「うむ、うむ!」

「ですが、これはどちらのメーカーのものですか?」

「……」

理事長の動きが止まった。

「理事長?」

「試供品であるッ!」

「どこの?」

「……知人の」

「どなたの?」

「……学園関係者の」

「理事長」

「うむッ!」

「目を見てください」

理事長は目を逸らした。

たづなさんの背筋に、すっと冷たいものが走った。

この反応。

この妙な言い訳。

この白い容器。

ラベルなし。

無香料に近い。

やけに伸びがいい。

ひんやりする。

そして、今朝提出された報告書。

V8。

日焼け止め。

汗量反応。

超微香料。

持ち込み禁止。

たづなさんの表情が、ゆっくり変わった。

「……理事長」

「な、何かね、たづな君」

「まさかとは思いますが」

「うむ」

「これ」

「うむ」

「V8ではありませんよね?」

理事長は沈黙した。

部屋が静かになった。

たづなさんの額に、ほんの少し汗が浮かぶ。

冷や汗だった。

その瞬間。

手の甲に塗られたクリームが、反応した。

ふわり。

ほんのわずかに、香りが立った。

雨上がりの空気。

海風。

石鹸の清潔感。

薄い柑橘。

ほんの少し花のような柔らかさ。

強くない。

むしろ、ほとんど気づかないほど淡い。

けれど。

たづなさんには、わかった。

「……」

たづなさんの瞳から、光が消えた。

理事長の耳が、帽子の下でぴんと立つ。

「た、たづな君……?」

ふわり。

香る。

たづなさんの冷や汗に反応して。

さらに、ほんの少しだけ。

ふわり。

「……理事長」

声が低かった。

とても低かった。

理事長は椅子の上で背筋を伸ばした。

「は、はいッ!」

「これは」

「うむ」

「V8ですね?」

「……」

「V8ですね?」

「……業務上の」

「V8ですね?」

「はいッ!」

理事長は即答した。

たづなさんは、静かに目を閉じた。


▼ 悪循環

その間にも、手の甲から淡い香りが広がる。

冷や汗が増える。

反応する。

香る。

気づいたことへの動揺で汗が出る。

汗が出たことで香りが増す。

香りが増したことで、さらにまずいと感じる。

さらに冷や汗が出る。

完全な悪循環だった。

「……理事長」

「はいッ!」

「なぜ」

「うむ」

「なぜ、危険物を」

「まだ危険物と確定したわけでは――」

「なぜ、持ち込み禁止リストに追加したものを」

「うむ」

「なぜ、私に」

「……検証を」

「なぜ、私に」

「……すみませんでしたッ!」

早かった。

理事長は椅子から降りる勢いで頭を下げた。

たづなさんは、手の甲を見た。

ふわり。

また香る。

良い香りだった。

それが余計に腹立たしかった。

「……本当に、質感はいいんですよね」

「そ、そうであろうッ?」

「そこを誇らないでください」

「はいッ」

たづなさんは席を立つ。

洗面台へ向かう。

手を洗う。

水をかける。

しかし。

「……落ちにくい」

「汗や水に強い設計であるからなッ!」

「理事長」

「はいッ」

「今、誇りましたね?」

「誇っていないッ!」

水に強い。

汗に強い。

日焼け止めとして優秀。

だから、簡単には落ちない。

たづなさんは石鹸を使った。

丁寧に洗う。

もう一度洗う。

タオルで拭く。

少し落ちた。

だが、完全には消えていない。

ほんのり残っている。

「……」

ふわり。

「……」

たづなさんの額に、また冷や汗が浮かぶ。

ふわり。

「……理事長」

「はいッ」

「離れてください」

「なぜであるかッ!?」

「私が冷静でいるうちにです」

「はいッ!」

理事長は部屋の端まで下がった。

たづなさんは深呼吸した。

失敗だった。

深呼吸すると、香りを吸う。

すぐに息を止める。

「……本当に、厄介ですね」

香りそのものは優しい。

強くない。

スピカさん素材もない。

スピカさん音声もない。

画像もない。

応援文もない。

ただ、落ち着く。

あまりにも落ち着く。

そして、落ち着いた瞬間に、脳裏に浮かぶ。

ステージの上のスピカ。

ウマ娘たちをまっすぐ見ていた瞳。

レース後にかけた言葉。

勝者だけでなく、負けた子にも向けた敬意。

歌声。

あの場の熱。

その記憶が、香りに結びつく。

たづなさんは、奥歯を噛んだ。

「……生えますね、これは」

理事長が小さく反応する。

「何がであるか……?」

「スピカさん成分です」

「やはりッ!」

「嬉しそうにしないでください」

「はいッ!」

たづなさんは机に戻った。

椅子に座る。

背筋を伸ばす。

書類を整える。

表情を作る。

秘書としての意地で耐える。

「……私は落ちません」

「たづな君……!」

「感動しないでください。怒っています」

「はいッ!」


▼ たづな追記

たづなさんは、容器を手に取った。

即座に封印袋へ入れる。

二重にする。

さらに机の引き出しから危険物管理用の袋を出す。

三重にする。

そして金庫へ向かう。

「理事長」

「はいッ」

「鍵を」

「うむ……」

理事長はしょんぼりしながら鍵を渡した。

金庫が開く。

中には、過去の危険物たちが並んでいた。

ASMR関連。

VR関連。

静止画関連。

香り関連。

グミ関連。

そして今回、V8が追加される。

たづなさんは無言で容器を奥に入れた。

金庫を閉める。

鍵をかける。

鍵を回収する。

「理事長」

「はい」

「今後、ラベルを剥がして化粧品に偽装する行為は禁止です」

「はい」

危険物を来客用化粧品セットに紛れ込ませる行為も禁止です」

「はい」

「私に塗るのも禁止です」

「はい」

「業務上の確認という言い訳も禁止です」

「……はい」

「少し間がありましたね?」

「はいッ!」

たづなさんは、手の甲を見た。

まだ、ほんの少し香る。

冷や汗は引いてきた。

だが、引いてきたことに安心した瞬間、またふわりと香る。

「……」

たづなさんは無言でハンカチを取り出し、手の甲を覆った。

理事長が恐る恐る言う。

「たづな君……大丈夫であるか?」

「大丈夫です」

「本当に?」

「大丈夫です」

「少し顔が赤いような――」

「大丈夫です」

「はいッ」

たづなさんは、資料を手に取った。

「夏合宿の持ち込み禁止リストを更新します」

「うむ……」

「V8は当然禁止」

「はい」

「類似品も禁止」

「はい」

「香料反応型の試作品も禁止」

「はい」

「ラベルなし容器も確認対象」

「はい」

「理事長室の化粧品セットは全品検査」

「……はい」

「理事長の単独検証は禁止」

「はい」

「理事長による他者への塗布禁止」

「はい」

「理事長による『保湿です』禁止」

「それは範囲が広くないかねッ!?」

「禁止です」

「はいッ!」

たづなさんは赤ペンを取り出した。

そして、報告書の余白に追記する。


たづな追記

V8はラベルを剥がしてもV8。

無香料に近くてもV8。

化粧品セットに紛れ込ませてもV8。

手の甲でも汗に反応する。

冷や汗にも反応する。

気づいた瞬間の動揺が危険

水に強いため、発覚後の除去が難しい。

理事長による業務上の確認は禁止。

理事長による他者への塗布は禁止。

ラベルなし容器は即確認。

理事長室の化粧品は今後すべて管理対象。


最後に、たづなさんは少しだけ手を止めた。

それから、静かに一文を書き足した。

気づいた時点で冷や汗をかくため、発覚後に悪化する。最悪。

さらに、その下。

品質が良いのが余計に腹立たしい。


理事長は、そっと覗き込んだ。

「……品質は良かったのであるな?」

たづなさんは微笑んだ。

完璧な秘書の笑顔だった。

「理事長」

「はいッ」

「そこだけ拾わないでください」

「はいッ!」

窓の外では、雨上がりの風が吹いていた。

理事長室には、もうほとんど香りは残っていない。

けれど、たづなさんの手の甲からだけ、ほんのわずかに爽やかな香りがした。

たづなさんはそれを感じるたび、静かに冷や汗をかき。

そのたびに、また少しだけ香りが立ち。

理事長はそのたび、少しずつ椅子ごと後退した。

「……理事長」

「はい」

「今日は定時で帰ります」

「うむ。休むとよいッ」

「その前に」

「うむ?」

「説教です」

「……はいッ」

その日の理事長室からは、いつもより長めの説教の声と。

時折、理事長の「はいッ!」という返事が聞こえたという。