外伝10:理事長・重量確認ということになっている(フィジカルV2・肩たたき同期)
関連章: 33_最強メンタル&フィジカル計画V2.md
視点: 秋川やよい(理事長)、駿川たづな
位置付け: V2疲労回復クッションがたづなさんの手で金庫行きになるまでの後日談。理事長が「理論の整理として」試みて偶然の同期に敗北するまで。
── 業務上の確認と、肩たたき同期 ──
理事長室は、今日も書類が多かった。
年度末ではない。大きな行事の直前でもない。緊急案件が山積みというわけでもない。
それでも、トレセン学園という場所は、常に何かしらの書類が生まれる。施設利用申請。トレーニング機材の点検報告。生徒のコンディション管理表。イベント関連の確認書。外部業者とのやり取り。安全対策の見直し。
そして。
「……これは?」
駿川たづなは、机の上に置かれた一枚の報告書を見て、眉をわずかに動かした。
報告書のタイトルには、こう書かれていた。
『最強メンタル&フィジカル計画V2 疲労回復サポートクッションに関する報告』
たづなは、そっと目を閉じた。一呼吸。二呼吸。三呼吸。それから、静かに目を開ける。
「……またですか」
声は穏やかだった。だが、その穏やかさは、嵐の前の静けさに近かった。
向かいのソファには、秋川やよい理事長が座っている。小柄な身体。頭の上の猫。いつものように堂々とした態度。
しかし、その目は報告書に釘付けだった。
「ほう……疲労回復サポートクッション……!」
きらり、と目が輝いていた。
たづなは、その輝きを見逃さなかった。
「理事長」
「うむ!」
「まだ何も言っていません」
「むっ」
「先に言っておきますが、試用は禁止です」
「むむっ!?」
やよい理事長の耳がぴくりと動いた。
「いや、たづな君。まだ私は何も言っていないぞ!」
「言っていなくても、顔に書いてあります」
「顔に!?」
「『業務上の確認として少しだけ試してみたい』と書いてあります」
「読心ッ!?」
「経験です」
たづなは淡々と言った。
経験。それは、積み重ねられた事故報告の数である。ASMR。VR。静止画。匂い。食品。4DX。公式音声。そして今回のクッション。
たづなは、もはや危険物の気配を報告書の文面だけで察知できるようになっていた。
やよい理事長は咳払いをした。
「し、しかしだな。今回は報告を見る限り、被害は本人のみ。周囲への影響もなく、救出も容易。しかも、疲労回復という目的自体は極めて有意義ッ!」
「目的は有意義です。ですが、スピカさんの音声を組み合わせた時点で危険です」
やよい理事長は、視線を少しだけそらした。否定はできなかった。
スピカの声。それは、トレセン学園において、もはや普通の音声素材ではない。歌えば泣く者が出る。語れば奮い立つ者が出る。優しく労えば意識が飛ぶ者が出る。本人に悪意はない。むしろ真摯で、誠実で、ウマ娘たちを心から思っている。
だからこそ、効く。効きすぎる。
たづなは報告書をめくった。
「今回の現象は、マッサージチェアによる身体的リラクゼーションと、スピカさんの労いの言葉による精神的リラクゼーションが重なったことで、過剰な脱力状態になったものと推測されます。特に問題だったのは、肩たたき動作のタイミングと、『今日もお疲れ様です』という音声が重なった点です」
たづなは報告書の該当箇所を指差した。赤ペンで大きく書かれている。
肩たたき同期、絶対禁止
やよい理事長は、その文字をじっと見つめた。
「肩たたき同期……」
口に出した。たづなの目が細くなる。
「理事長」
「いや、言葉の響きがな」
「理事長」
「な、何もしておらんぞ!」
「今、想像しましたね」
「……少しだけ」
「禁止です」
「まだ想像だけだ!」
「想像で済む方なら、ここまで金庫が埋まっていません」
やよい理事長は黙った。理事長室の隅には、頑丈な金庫がある。そこには、これまで封印された数々の危険物が保管されていた。表向きは再発防止資料。実態は、触れてはいけない博物館。
たづなは、その金庫をなるべく視界に入れないようにしている。見れば胃が痛くなるからである。
「ともかく、このクッションも一時保管します。安全版への改修案は検討しても構いませんが、スピカさんの音声再生機能は削除。環境音のみです」
「環境音……」
「波音、雨音、森の音などです」
「それはそれで良いが……」
「物足りない、と思いましたね」
「……少しだけ」
「その少しが危険です」
たづなは報告書を閉じた。
「理事長。これは正式に金庫へ――」
その時だった。理事長室の電話が鳴った。
たづなは一瞬、嫌な予感を覚えた。こういう時に限って、部屋に危険物と理事長が残る。そしてこういう時に限って、理事長は好奇心に勝てない。
「……わかりました。すぐ向かいます」
受話器を置く。たづなは、ゆっくり理事長の方を向いた。
「理事長」
「うむ!」
「私は少しだけ席を外します」
「うむ!」
「クッションには触らないでください」
「うむ!」
「スマホと接続しないでください」
「うむ!」
「マッサージチェアに持っていかないでください」
「う、うむ!」
「業務上の確認もしないでください」
「……うむ!」
最後だけ返事が遅かった。たづなは、静かに目を細めた。
「理事長」
「な、なんだね」
「戻ってきた時、クッションの位置が変わっていたら、すぐわかります」
「そ、それほど信用がないのかね!?」
「信用しているから念押ししています」
「それは信用なのかね!?」
「では、お願いします」
たづなは理事長室を出て行った。扉が閉まる。室内が静かになった。
やよい理事長は、しばらく動かなかった。
じっとしていた。本当にじっとしていた。
机の上には、薄型スピーカー内蔵クッション。見た目は普通である。淡い色。やわらかそうな形。首元に当てるのにちょうどよさそうな大きさ。
危険物には見えない。むしろ、疲れた身体を労わるための優しい道具に見える。
「……ふむ」
やよい理事長は腕を組んだ。
触らない。もちろん触らない。たづな君に言われたのだ。理事長として、約束は守るべきである。
そもそも、これは生徒が作った試作品だ。安全性が確認されていないものを、学園の長たる自分が軽々しく試すべきではない。そんなことはわかっている。わかっているのだ。
「……しかし」
やよい理事長は、机の上の報告書を見た。
『本人曰く、身体がものすごく柔らかくなった気がする』
「柔軟性……」
ウマ娘にとって、身体の柔らかさは重要である。筋肉の緊張を抜く能力。リラックスした状態で身体を預ける感覚。走りにおける無駄な力みの排除。
一流のアスリートほど、必要な場面で力を入れ、不要な場面で力を抜く。それは、学園の指導方針としても重要な観点だ。
「業務上……」
口から出かけた言葉を、やよい理事長は飲み込んだ。
たづな君に禁止された。業務上の確認も禁止された。それは覚えている。
「……確認ではない」
やよい理事長は、小さく呟いた。
「理論の整理だ」
机の上で報告書を読む。危険点を把握する。改善案を考える。それなら問題ない。
やよい理事長は報告書を手に取った。読み進める。
『特に肩たたき動作と「今日もお疲れ様です」の発話が同期した瞬間、被験者は意識を失った』
「なるほど……」
同期。つまり偶然。狙ったわけではない。ならば、逆に言えば、同期させなければ安全性は上がるのではないか。
いや、いかん。その考えはすでに赤ペンで否定されている。
『同期しなければ可能性あり?』
『なし』
同室の子の赤ペンは、実に的確だ。やよい理事長は感心した。
「まったく、良い友を持ったものだ」
そう言いながら、視線はクッションへ向かっていた。
触らない。触らない。触らない。
「……手触りを確認するだけなら」
指先が伸びた。クッションに触れる。やわらかい。思った以上に質がいい。市販品に近いどころか、かなり丁寧に作られている。
「むむ……完成度が高い……」
やよい理事長の目が輝いた。
今回は、画像を使っていない。無断加工もしていない。音量も控えめ。過去の事故と比べれば、かなり抑制されている。
「成長……しているのだな」
やよい理事長の表情が、少しだけ柔らかくなった。生徒が成長する姿は嬉しい。たとえ方向性が斜め上でも。たとえ赤ペンが追いつかない速度で走っていても。
「……うむ」
やよい理事長は頷いた。そして。クッションを持ち上げた。
「重量確認だ」
誰にともなく言い訳した。
「装着感の確認……いや、首に当てるだけなら……」
理事長は、ソファに座ったままクッションを首元に当てた。
「おお……」
ふわりと支えられる。ちょうどよい弾力。これは確かに、トレーニング後にはありがたい。ただのクッションとしても優秀だ。
「これは安全版にすれば、十分実用化の余地が――」
そこまで言ったところで。クッションから、小さく音が鳴った。
「……ん?」
やよい理事長は固まった。スマホとは接続していない。少なくとも、自分は接続していない。ではなぜ音が。
机の上の報告書を見る。そこに小さな付箋があった。
『前回テスト音源が本体内メモリに残っている可能性あり。電源注意』
やよい理事長の顔から、血の気が引いた。
「……電源」
先ほど触った時、どこかのボタンに指が当たったのかもしれない。
クッションから、公式動画のBGMが流れ始めた。やわらかな音楽。穏やかな空気。そして。
『皆さん、今日も――』
「待て」
やよい理事長は、クッションを外そうとした。だが、その瞬間。
理事長室の隅に置かれていた小型マッサージ器が、低く震えた。
「なぜだ!?」
以前、腰痛対策として導入された簡易マッサージクッションである。だが、机の横に置かれていたそのリモコンに、さきほど報告書を動かした拍子で何かが当たっていた。
偶然。完全なる偶然。
しかし、危険物の歴史はだいたい偶然で加速する。
小型マッサージ器が、理事長の肩に当たった。
とん。
クッションから声が流れる。
『今日も』
とん。
『お疲れ様です』
とん。
「――ッ」
やよい理事長の目が見開かれた。
肩たたき。スピカの声。今日もお疲れ様。身体を労わる刺激。心を包む声。
学園の長として、日々気を張り続けてきた身体に。ウマ娘たちを守るために強くあろうとしてきた心に。
その言葉は、あまりにも優しかった。
「こ、これは……」
理事長は耐えようとした。秋川やよいは、トレセン学園の理事長である。小柄であっても、常に前に立つ。豪快に笑い、力強く言い切り、生徒たちを導く。
だから、この程度で意識を手放すわけにはいかない。手放すわけには。
『無理はしすぎないでくださいね』
「…………」
理事長の身体から、すっと力が抜けた。
小型マッサージ器が肩を叩く。クッションが首元を支える。スピカの声が、優しく労う。
「……ふむ」
理事長は、最後にかすかな声で呟いた。
「これは……たしかに……柔らかく……」
そこで意識が落ちた。
ソファの上で、秋川やよい理事長は幸せそうに気絶した。
頭の上の猫だけが、じっとその様子を見ていた。
── 説教と金庫 ──
数十分後。たづなが理事長室に戻ってきた。
扉を開ける。そして、即座に足を止めた。
ソファ。理事長。首元のクッション。小型マッサージ器。流れている公式動画音声。幸せそうな寝顔。
たづなは、何も言わなかった。
何も言わずに、まず音声を止めた。次に小型マッサージ器の電源を切った。それからクッションを外した。
理事長は、少しだけ眉を寄せた。
「む……もう少し……」
「理事長」
たづなの声は静かだった。理事長は、ゆっくり目を開けた。
「……たづな君?」
「はい」
「私は……」
「試しましたね」
「……違うのだ。重量確認をしていた」
「はい」
「装着感の確認をした」
「はい」
「すると、偶然電源が入り」
「はい」
「偶然、小型マッサージ器も動き」
「はい」
「偶然、肩たたきと音声が同期した」
「はい」
「つまり、不可抗力だ」
たづなは、にこりと微笑んだ。
「理事長。不可抗力でも、事前に触らなければ起きません」
「……うむ」
「座ってください」
「もう座っているが」
「正座です」
「たづな君!?」
それからしばらく、理事長室には静かな説教の時間が流れた。たづなの声は大きくない。むしろ穏やかである。しかし、その一言一言は的確に刺さった。
「触らないでくださいと言いました」
「うむ」
「スマホと接続しないでくださいと言いました」
「接続はしていない」
「本体内メモリがありました」
「確認不足であった」
「業務上の確認もしないでくださいと言いました」
「理論の整理をしていただけで……」
「理事長」
「……はい」
たづなは深く息を吐いた。
怒っている。もちろん怒っている。だが、それだけではない。
理事長が幸せそうに眠っていた姿を見た時、少しだけ胸が痛んだ。普段、理事長は気を張っている。小柄な身体で、誰よりも大きく振る舞う。ウマ娘たちの居場所を守るため、強く、明るく、豪快であろうとする。
だから、あんなふうに力が抜けた姿を見ると、怒るだけでは済まない。休んでほしいとも思ってしまう。
ただし。その手段がスピカ音声付き肩たたき同期なのは、絶対に駄目である。
「理事長」
「うむ……」
「疲れている時は、普通に休んでください」
「……うむ」
「マッサージ器を使うのは構いません。環境音を流すのも構いません。スピカさんの声を組み合わせないでください」
「…………うむ」
「返事が遅いです」
「すまない」
たづなは机の上のクッションを手に取った。
「これは金庫です」
「うむ……」
「本体内メモリも消去します」
「うっ」
「理事長」
「……うむ」
やよい理事長は、明らかに名残惜しそうだった。たづなはそれを見て、さらに胃が痛くなった。
「それから、小型マッサージ器のリモコンは机の上に置かないでください。危険物報告書と同じ机にも置かないでください。偶然の同期を発生させないでください」
「偶然は私のせいでは……」
「理事長」
「……うむ」
その後、クッションは正式に金庫へ入れられた。
分類名:『最強メンタル&フィジカル計画V2 疲労回復サポートクッション』
危険度:中。ただし条件次第で高。
備考:『肩たたき同期、絶対禁止』
たづなはそこに、さらに一文を書き足した。
『理事長単独時の閲覧・接触禁止』
やよい理事長が横から覗き込み、むっとした顔をする。
「たづな君、それは少し厳しすぎないかね」
「厳しくありません」
「私は理事長だぞ!」
「だからです」
「だから!?」
「理事長が倒れると、学園業務が止まります。それに、生徒たちに示しがつきません」
「うむ……」
やよい理事長は、しゅんとした。だが、しばらくしてから、小さく呟いた。
「しかし、たづな君。効果はあった」
たづなの眉が動いた。
「いや、危険性は認める。認めるが、力が抜ける感覚は確かにあった。普段、私は思った以上に肩に力が入っていたのだなと……」
たづなは、少し黙った。それは、否定できなかった。
「……それは、そうかもしれません」
「うむ。だから安全版は検討したい」
「安全版なら、です。環境音のみ。スピカさんの音声はなし。肩たたき同期もなし」
「……物足りないな」
「理事長」
「言っただけだ!」
たづなはため息をついた。しかし、その表情はほんの少しだけ柔らかかった。
「では、安全版の疲労回復クッションについては、保健室とトレーナーの方々に相談して検討しましょう」
「うむ! それが良い!」
「ただし、例の子には必ず赤ペン先生同伴で話を通します。そして、理事長は試作品の単独試用禁止です」
「うむ……」
「返事」
「うむ!」
その日の報告書には、最終的にこう記された。
本試作品は、身体的脱力と心理的安心感を組み合わせる発想自体には一定の有用性が見込まれる。ただし、スピカ氏の音声を使用した場合、ウマ娘に対する効果が過剰となり、意識喪失を引き起こす危険があるため、使用禁止とする。
その下に、たづなの字で追記。
安全版は環境音のみで検討。
さらにその下。なぜか理事長の字で、小さく。
*肩が軽くなった気はする*
その文字は、すぐにたづなの赤ペンで囲まれた。
感想を書かないでください
理事長室の金庫は、またひとつ中身を増やした。
そしてその日以降、学園内では静かに新しい注意事項が追加された。マッサージチェア利用時に、スピカ関連音声を流してはいけない。首元クッションにスピーカーを仕込んではいけない。肩たたき動作と労い音声を同期させてはいけない。
なお。この注意事項を読んだ一部のウマ娘たちは、こう思った。
――同期させると、そんなに危ないんだ。
その視線の先で、同室の子は嫌な予感を覚えて振り返った。
「……今、誰か試そうと思った?」
誰も返事をしなかった。
返事がないことが、一番怖かった。