第2話 スピカという名前
その日から、僕の生活には一冊のノートが増えた。
表紙には、子どもの字でこう書いてある。
この世界に、ウィニングライブを作る。
今見返せば、かなり大げさな言葉だと思う。
けれど、当時の僕にはそれしか思いつかなかった。
ウィニングライブ。
前世で見た、あの眩しい景色。
勝ったウマ娘がセンターに立ち、同じレースを走った子たちが一緒に歌って踊る。
勝者は一番前で輝く。
けれど敗者も、同じ光の中にいる。
この世界には、それがない。
なら、作るしかない。
七歳の僕は、本気でそう思っていた。
もちろん、子どもの僕にできることなんてほとんどなかった。
トレセン学園に行けるわけでもない。
レース場を動かせるわけでもない。
ウマ娘に歌ってくださいと頼める立場でもない。
だから、最初にしたことは、忘れないように書くことだった。
前世の記憶は、はっきりしているようで、時々曖昧だった。
育成開始の音。
ライブの照明。
ステージに並ぶウマ娘たち。
デビュー戦の後に聞いた明るい曲。
勝利の後に響く歓声。
大事なものほど、輪郭だけが眩しくて、細部がこぼれていく。
だから僕はノートに書いた。
曲名。
始まりの音。
サビに入る直前の高揚感。
センターの立ち位置。
後ろで踊る子たちの動き。
腕を上げるタイミング。
ステップの向き。
表情。
照明が変わる瞬間。
ステージ全体の並び。
思い出せるものは全部書いた。
文字だけでは足りないところは、下手な絵で描いた。
右手を上げる。
半歩前へ。
ここでターン。
センターは笑う。
後ろの子も、ただの背景じゃない。
全員が同じ曲の中にいる。
そんなメモを、何度も何度も書いた。
曲の名前も書いた。
メイクデビュー。
その言葉を書いた時、胸の奥が少しだけ熱くなった。
まだ何者でもない子が、これから走り出すための歌。
全員が栄光を掴めるわけじゃない。
それは、子どもの僕にもわかっていた。
レースで一着になれるのは一人だけだ。
どれだけ努力しても届かないことはある。
どれだけ願っても、勝てない日がある。
それでも、ゲートに立つ子がいる。
夢を見て、前を向いて、もう一度走ろうとする子がいる。
そういう子たちの力になれる曲。
僕にとって、メイクデビューはそういう曲だった。
だからこそ、変えたくなかった。
ただ似たような曲を作ればいいわけじゃない。
雰囲気だけを真似ればいいわけでもない。
前世で見たあの曲を、あの振付を、あのステージを、できる限りそのまま残したかった。
それは、僕が前世で何より好きだったものへの敬意だった。
ただのゲームの演出だと言われれば、そうだったのかもしれない。
けれど、僕にとっては違った。
あの歌に救われた。
あのステージに胸を焼かれた。
あの子たちが光の中で歌って踊る姿を、何度も、何度も見ていた。
辛い時も、疲れた時も、何かを諦めそうになった時も、画面の向こうの彼女たちは走っていた。
勝って、笑って、歌っていた。
だから忘れたくなかった。
この世界にないからこそ、忘れてはいけないと思った。
僕は、覚えている限りの曲名を書いた。
メイクデビュー。
NEXT FRONTIER。
DRAMATIC JOURNEY。
他にも、思い出せるものは全部。
汎用曲だけじゃない。
レースの曲も。
ライブの曲も。
特定のウマ娘を思い出す曲も。
明るい曲も、熱い曲も、胸が痛くなる曲も。
歌詞の細かな部分は、全部を完璧に書けるわけではなかった。
けれど、メロディの流れは覚えていた。
曲が持っていた意味も。
ステージの空気も。
振付の印象も、誰がどの位置に立っていたかも。
そういうものを、覚えている限り全部ノートに移した。
忘れないために。
いつか、この世界のウマ娘たちに届けるために。
ただし、それをそのまま人に話すつもりはなかった。
前世で聞きました、なんて言えるわけがない。
アプリで見ました、なんて言っても、この世界の誰にも伝わらない。
それに、言うべきでもないと思った。
この世界のウマ娘たちは、画面の向こうのキャラクターじゃない。
今ここで生きている。
走っている。
悩んで、泣いて、笑っている。
だから、前世の記憶を押しつけてはいけない。
僕が知っているからといって、知ったつもりになってはいけない。
でも。
あの曲たちを、この世界に届けたい。
できる限り、変えずに。
できる限り、あの時の輝きのまま。
そのためには、僕自身が音楽を知らなければならなかった。
記憶の中の音を、形にする力が必要だった。
だから、僕は音楽を習いたいと言った。
両親は、かなり驚いた。
「音楽?」
「うん」
「急にどうしたの?」
「曲を形にしたい」
母は目を丸くした。
「作るってこと?」
僕は少し迷った。
作る、という言葉は少し違う気がした。
僕は何もないところから作りたいわけじゃない。
僕の中に焼き付いているものを、忘れないように、壊さないように、この世界で鳴らせる形にしたい。
でも、それをうまく説明する言葉を、当時の僕は持っていなかった。
「うん。ウマ娘のための曲」
そう答えると、父も母も困ったように顔を見合わせた。
それでも、最終的には習わせてくれた。
ピアノ。
楽譜の読み方。
リズム。
歌。
最初は全部、難しかった。
頭の中には、確かに音がある。
でも、それを外に出す方法がわからない。
この音は何の音なのか。
どの高さなのか。
どう繋げれば、胸の奥で鳴っていたものに近づくのか。
何度も間違えた。
何度も書き直した。
子どもの指では、思ったように鍵盤を押せなかった。声も安定しなかった。先生には「まず基礎からね」と何度も言われた。
基礎。
それは地味で、退屈で、遠回りだった。
でも、僕はやめなかった。
あの曲を、できる限り正しく鳴らすため。
あの子たちに、いつか歌ってもらうため。
その一言だけで、続けられた。
しばらくして、僕はもう一つ習い事を増やした。
ダンスだった。
これも両親は驚いた。
「今度はダンス?」
「うん」
「音楽だけじゃだめなの?」
「歌って踊るから」
「誰が?」
「ウマ娘が」
「……そのために、あなたが踊るの?」
「うん」
今思うと、両親は相当困ったと思う。
けれど、僕は真剣だった。
ウィニングライブは、歌だけでは足りない。
ステージがあり、動きがあり、光があり、そこに立つウマ娘たちの表情がある。
曲だけ鳴らせても、振付を伝えられなければ意味がない。
だから、僕がまず踊れるようにならなければならなかった。
ただ、問題があった。
僕は運動が得意ではなかった。
少なくとも、ウマ娘たちのように動けるわけではない。
当たり前だ。
僕はただの人間の男の子で、彼女たちのような脚力も、体幹も、反応速度もない。
レッスン初日、僕は自分の体が思ったより言うことを聞かないことに絶望した。
手と足が別々に動かない。
ターンするとふらつく。
リズムを取るだけで精一杯。
鏡に映る自分は、前世の記憶にあるステージとはあまりにも遠かった。
先生は言った。
「焦らなくていいよ。最初はみんなそんなものだから」
でも、僕は焦った。
僕の中には、ずっとあの光景がある。
軽やかに踊るウマ娘たち。
ステージの上で笑う勝者。
少し後ろで、悔しさを抱えながらも同じ曲の中にいる子たち。
あの景色に、今の僕は全然届いていない。
それが悔しかった。
だから練習した。
家でも、レッスン場でも、学校から帰ってからも。
何度も転んだ。膝をぶつけた。足首をひねりかけた。筋肉痛で階段を降りるのが嫌になった日もある。
それでも、続けた。
いつかウマ娘たちが歌って踊る時、僕が何も伝えられないのは嫌だった。
僕は彼女たちのように走れない。
レースで勝たせる知識もない。
なら、せめて歌と踊りだけは、ちゃんと届けられるようになりたかった。
年齢が上がるにつれて、僕はレースのことも調べるようになった。
最初は、ただ好きだから見ていた。
けれど次第に、この世界の冷たさも見えるようになった。
勝ったウマ娘は称えられる。
でも、すぐに次の期待を背負わされる。
負けたウマ娘は、惜しかったと言われることもある。
けれど、それは本当に彼女自身を見ている言葉なのか、だんだんわからなくなった。
次は勝てるのか。
まだ使えるのか。
引き際はいつか。
そういう言葉が、記事にも、掲示板にも、観客席にもあった。
そして男性の言葉は、時にそれをもっと雑にした。
もちろん、全員がそうではない。
優しい人もいる。真面目にレースを見ている人もいる。ウマ娘に敬意を払う人だって、きっといる。
けれど、男性が少ないこの世界では、男性のわがままが通りやすい。
少し乱暴な言葉を使っても、周囲が強く咎めないことがある。
ウマ娘たちがそれを受け流している場面を、何度も見た。
テレビのインタビューでも、レース場でも、ネット上でも。
それを見るたびに、胸の奥が冷えた。
僕は、男だ。
この世界では、それだけで何かを許されてしまう側にいる。
でも、だからこそ、許されたくなかった。
少なくとも、ウマ娘たちに対して偉そうにしたくなかった。
彼女たちは走っている。
苦しそうでも、前を向いて、ゴールを目指している。
僕はその姿に救われてきた。
それを、どうして見下せるのだろう。
わからなかった。
いや、わかりたくなかった。
中学、高校と年齢が進む頃には、僕のノートは何冊にも増えていた。
曲の断片。
振付のメモ。
ステージの配置。
レース後の進行案。
照明のイメージ。
曲名の一覧。
レース感想。
ウマ娘たちへの言葉。
前世で見たライブの記憶を、できる限りそのまま残すための記録。
それは、ただの資料ではなかった。
僕が前世から今世にかけて、何に胸を焼かれてきたのか。
何を失いたくなかったのか。
何をこの世界へ届けたかったのか。
その全部が詰まっていた。
その中に、活動名の候補を書いたページがある。
最初はいくつも考えた。
ライブプロジェクト。
ウマ娘応援室。
レース後ステージ計画。
どれも、どこか違った。
僕がやりたいのは、ただの企画名ではない。
この世界に、あの光を持ち込むための名前。
好きだったものへの敬意と、これから関わっていく決意を込めた名前。
僕はノートの真ん中に、一つの言葉を書いた。
スピカ。
前世で、僕が好きだった物語の中にあった名前。
この世界の誰も、その由来を知らない。
知らなくていい。
これは僕だけの祈りで、僕だけの決意だった。
表向きには、星の名前だと言えばいい。
夜空に輝く星。
遠くにあって、道しるべになる光。
それで十分だった。
僕は、スピカになる。
この世界のウマ娘たちに、少しでも光を届けるために。
ただし、一つだけ決めていた。
前世のことは、誰にも言わない。
僕は前世でアプリを知っている。
主要な人物の名前も知っている。
レースの名前も、史実も、いくつかの大きな出来事も知っている。
でも、それはあくまで僕の知識だ。
ここにいるウマ娘たちは、画面の向こうの存在ではない。
今を生きている。
この世界で走り、この世界で悩み、この世界で笑う。
だから、知ったつもりになってはいけない。
あなたはこういう子でしょう、なんて言ってはいけない。
あなたはこういう運命だから、なんて思ってはいけない。
曲についても同じだった。
この曲は、前世で聞きました。
この振付は、アプリで見ました。
そんなことは言わない。
言えないし、言うべきでもない。
この世界に届けるなら、僕が責任を持って届ける。
どれだけ元の輝きを失わずにいられるか。
どれだけ敬意を持って再現できるか。
それが、僕にできる唯一の誠実さだった。
気づけば、僕は青年になっていた。
部屋の本棚には、レースの資料と音楽理論の本とダンスのノートが並んでいる。
棚の一番奥には、昔から書き続けてきたノートがある。
最初の一冊には、歪んだ文字でこう書いてあった。
この世界に、ウィニングライブを作る。
今では、それは何冊にも増えていた。
壁際には、小さな撮影用のライト。
机の上にはマイク。
配信用の機材は、少しずつアルバイト代を貯めて揃えたものだった。
画面には、配信チャンネルの設定画面が開いている。
チャンネル名。
Spica Project
その文字を見て、僕は深く息を吸った。
指が少し震えていた。
怖くないわけじゃない。
男性の個人配信は珍しい。
しかも、ウマ娘について語る。
そのうえ、最後には歌うつもりだった。
笑われるかもしれない。
気持ち悪いと思われるかもしれない。
ウマ娘たちに届かないかもしれない。
そもそも、誰も見に来ないかもしれない。
それでも。
僕は、あの日のレース場を思い出した。
勝ったウマ娘の忙しない笑顔。
届かなかった子たちの背中。
誰も知らなかった、ウィニングライブ。
あれから何年も経った。
僕はまだ、レース場を変える力なんて持っていない。
トレセン学園と繋がりがあるわけでもない。
ウマ娘たちに直接ステージを用意できるわけでもない。
でも、歌ならある。
言葉ならある。
ずっと練習してきた声と、まだぎこちなさの残る踊りならある。
僕はマイクの前に座った。
配信開始ボタンにカーソルを合わせる。
心臓がうるさい。
大丈夫。
これは、僕が主役になるための配信じゃない。
僕が見たいのは、ウマ娘たちが歌って踊る姿だ。
僕は、その最初の一歩を置くだけだ。
そう自分に言い聞かせて、ボタンを押した。
画面が切り替わる。
配信が始まる。
視聴者数は、まだ少ない。
コメントもまばらだった。
男性の個人配信?
何の配信?
ウマ娘について話すの?
冷やかしのような言葉もあった。
それでも、僕はカメラを見た。
「はじめまして」
自分の声が、少しだけ震えていた。
僕は背筋を伸ばす。
「活動名は、スピカです」
コメントが数件流れる。
綺麗な名前。
星?
男の人?
僕は軽く頷いた。
「今日は、僕がずっと考えてきたことを話したくて、配信を始めました」
胸の奥で、何年も前の熱がよみがえる。
初めて見た本物のレース。
勝った子の光。
届かなかった子の背中。
ノートの最初のページに書いた、歪んだ文字。
この世界に、ウィニングライブを作る。
僕は息を吸った。
「僕は、ウマ娘の走りが好きです」
配信画面の向こう側で、いくつかのコメントが止まったように見えた。
僕は続ける。
「最後の直線で、苦しそうなのに前を向く姿が好きです」
「勝った子がゴールした瞬間の表情も好きです」
「でも、届かなかった子が、それでも最後まで走り抜く姿も、僕は忘れたくありません」
声の震えは、いつの間にか消えていた。
僕はもう、カメラの向こうの人数を見ていなかった。
ただ、どこかにいるウマ娘たちへ向けて話していた。
勝った子へ。
負けた子へ。
これから走る子へ。
走るのが怖くなっている子へ。
まだ何者でもない子へ。
「すべてのウマ娘が、栄光を掴めるわけではないことは、僕も知っています」
コメント欄が静かになった。
「どれだけ努力しても届かないことがある。どれだけ願っても、一着になれるのは一人だけです」
それでも、と僕は言った。
「それでも、ゲートに立つ子がいる。夢を見て、前を向いて、もう一度走ろうとする子がいる」
胸の奥が熱い。
「僕は、そういう姿が好きです」
僕は手元の音源を確認した。
何年もかけて、この世界で鳴らせるようにした曲。
何度も練習した歌。
何度も体に叩き込んだ振付。
完全ではない。
きっと、まだ足りない。
けれど、僕が前世で焼き付けられた光に、少しでも近づくために積み上げてきた全部だった。
「話すだけで終わってしまうのも、なんですから」
僕は少しだけ笑った。
「この曲を、歌います」
画面の向こうで、コメントが流れ始める。
歌?
曲?
何?
僕は、曲名を告げた。
「まだ何者でもない君が、それでも夢へ走り出すための歌です」
息を吸う。
「曲名は――」
長い時間をかけて、ようやくここまで来た。
「メイクデビュー」
音が鳴る。
明るく、まっすぐな前奏。
僕は歌い始めた。
この世界にないはずの、最初の歌を。