第3話 メイクデビュー
音が鳴った。
明るく、まっすぐな前奏。
何年もノートに書き続けた曲。
何度も頭の中で鳴らし、何度も指でなぞり、何度も声に出し、何度も鏡の前で踊った曲。
前世の僕が何より好きだったもの。
この世界には存在しない、ウィニングライブの最初の光。
メイクデビュー。
僕は歌い始めた。
歌詞を、ここで全部書き写すことはしない。
それはきっと、僕だけのものではないから。
ただ、言葉の端々にあった眩しさは、今でも覚えている。
その曲は、明るかった。
まだ何者でもない子が、初めてゲートに立つ時の胸の高鳴り。
不安で足が震えても、それでも前を向こうとする勇気。
勝てるかどうかなんて、誰にもわからない。
それでも、夢を見ていいのだと背中を押す光。
そんな曲だった。
僕の声は、完璧ではなかったと思う。
前世で見たステージのような輝きには、きっと届いていない。
あの子たちのように軽やかに踊れているわけでもない。
ウマ娘たちの体幹や、しなやかさや、あの圧倒的な存在感には遠く及ばない。
それでも、歌った。
できるだけ丁寧に。
できるだけ正確に。
できるだけ、あの時の光を壊さないように。
画面の向こうにいる誰かへ。
まだ見ぬウマ娘たちへ。
勝ったことのある子へ。
勝てなかった子へ。
これからデビューする子へ。
もう走るのが怖くなっている子へ。
誰にも見てもらえていないと思っている子へ。
この曲が、少しでも届けばいい。
僕はそう思いながら、歌っていた。
配信画面のコメントを見る余裕はなかった。
曲が始まった瞬間から、視聴者数が増えていることにも気づかなかった。
誰かがコメントを打つ。
また誰かが拡散する。
男性の個人配信者が、ウマ娘への想いを語っている。
しかも歌っている。
曲名はメイクデビュー。
その情報が、静かに、でも恐ろしい速さで広がっていったことを、僕はまだ知らなかった。
僕はただ、歌っていた。
最後のフレーズを歌い終え、体を止める。
息が上がっていた。
胸が痛い。
練習では何度も通した曲なのに、本番の緊張は全然違った。
僕は少しだけ息を整えてから、カメラに向かって頭を下げた。
「ありがとうございました」
それから、ようやく画面を見た。
コメント欄が、流れていた。
流れている、というより、崩れていた。
早すぎて読めない。
文字が画面の上を滑って消えていく。
待って。
何。
今の何。
歌った。
男の人が。
ウマ娘のために。
無理。
泣いた。
無理。
もう一回。
アーカイブ残して。
消さないで。
お願いします。
スピカ?
スピカさん?
スピカきゅん?
「えっと」
僕は固まった。
想定していなかった。
いや、反応があるかもしれないとは思っていた。
少しでも届けばいいとは思っていた。
でも、これは何だ。
視聴者数が、配信開始時とは桁が違っていた。
コメントは止まらない。
どう返せばいいのかわからない。
「あの、ありがとうございます。ええと……アーカイブは残します」
その瞬間、コメント欄がさらに加速した。
残る。
生きた。
ありがとう。
これで寝られる。
寝られる?
わからないけど寝られる。
無理、寝られない。
どっち。
僕は少し困って笑った。
「今日は、これで終わろうと思います」
終わるな。
待って。
早い。
いや休んで。
でも終わらないで。
歌だけもう一回。
メイクデビューもう一回。
スピカきゅん待って。
スピカきゅん?
「えっと、スピカきゅん……?」
思わず読み上げてしまった。
その瞬間、コメント欄が爆発した。
しまった、と思った時には遅かった。
スピカきゅん。
拾った。
本人が言った。
終わった。
始まった。
かわいい。
かわいいって言うな。
でもかわいい。
僕は咳払いをした。
「……今日は、本当にありがとうございました」
どうにか話を戻す。
「僕は、ウマ娘のみなさんが走る姿が好きです」
コメントの流れが少しだけ変わった。
「勝った子も、届かなかった子も、これから走る子も。今日の話や曲が、少しでも力になったなら嬉しいです」
胸の奥がまだ熱い。
僕は、最後にもう一度だけ頭を下げた。
「また、いつか。お話しできたらと思います」
そう言って、配信を終了した。
画面が暗くなる。
部屋に、静けさが戻った。
僕は椅子にもたれかかった。
終わった。
やった。
やってしまった。
心臓が、まだ速い。
手が震えている。
コメント欄の流れは、配信を切った今でも目に焼き付いていた。
届いたのだろうか。
少しは、届いたのだろうか。
僕にはわからなかった。
ただ、配信画面の数字だけは、明らかに自分の想像を超えていた。
僕はしばらく呆然としていた。
その頃、僕の知らない場所で、いくつもの出来事が起きていた。
あるトレセン学園の寮。
談話室のソファに座っていたウマ娘が、スマホを握ったまま動かなくなっていた。
「ねえ、大丈夫?」
友人が声をかける。
返事はない。
ただ、耳だけがぴんと立っている。
「おーい」
肩を揺すられる。
そこでようやく、そのウマ娘は小さく息を吐いた。
「……男の人が」
「うん?」
「ウマ娘のために、歌ってた」
「何言ってるの?」
「私にも、歌ってた気がする」
そう言って、彼女は顔を両手で覆った。
別の地方の寮。
夕食後の部屋で、二人のウマ娘が一つの端末を覗き込んでいた。
「変な配信あるって聞いたんだけど」
「男性の個人配信?」
「そう」
「大丈夫なの?」
「わかんない。でも、ウマ娘の話してるって」
軽い気持ちで再生した。
数分後、一人は泣いていた。
もう一人は、なぜ友人が泣いているのか聞こうとして、自分も泣いていることに気づいた。
また別の場所。
何度も未勝利戦で負けているウマ娘が、ベッドの中で端末を見ていた。
眠れない夜だった。
目を閉じれば、最後の直線が浮かぶ。
抜かれる瞬間。
観客のため息。
トレーナーの気遣う声。
もうやめた方がいいのかもしれない、という自分の弱い声。
そんな夜に、友人からメッセージが届いた。
『これ、見て。たぶん今見た方がいい』
正直、見る気分ではなかった。
男性の配信。
ウマ娘について語る。
それだけで少し身構えた。
でも、友人がそこまで言うならと思って再生した。
画面の中の青年は、少し緊張しているように見えた。
活動名はスピカ。
彼は言った。
ウマ娘の走りが好きだと。
最後の直線で、苦しそうなのに前を向く姿が好きだと。
勝った子だけじゃなく、届かなかった子の走りも覚えていたいと。
彼女は息を止めた。
それは、自分に向けられた言葉ではなかったかもしれない。
でも、そう聞こえた。
自分は、届かなかった子だ。
何度も。
何度も。
それでも走った。
誰かが覚えていたいと言ってくれるなんて、思っていなかった。
そして曲が始まった。
明るい曲だった。
でも、ただ明るいだけじゃなかった。
まだ何者でもない子が、それでも夢へ走り出すための歌。
自分にはもう遅いと思っていた。
デビューなんて、眩しい言葉は、勝てる子だけのものだと思っていた。
けれど、その曲は不思議と、今の自分にも向いている気がした。
まだ終わっていない。
もう一度、前を向いていい。
そう言われた気がした。
気づけば、涙が落ちていた。
泣いたら、少しだけ呼吸が楽になった。
曲が終わる。
スピカが頭を下げる。
彼女は端末を握ったまま、しばらく動かなかった。
そして、久しぶりに眠気を感じた。
最後の直線が浮かばない。
観客のため息も聞こえない。
代わりに、あの曲が頭の中で流れている。
彼女は涙の跡を残したまま、眠った。
その夜、各地のウマ娘たちが似たような反応をした。
座り込む子。
泣く子。
端末を抱えて固まる子。
アーカイブが残っているかを何度も確認する子。
寮の廊下を走りかけて、寮長に止められる子。
ベッドの上で布団をかぶり、もう一度だけ聞いてから寝ようとして、結局何度も聞く子。
そして、そのたびに掲示板が立った。
僕は知らなかった。
僕が配信を切った後、ウマ娘たちの匿名掲示板が大変なことになっていたことを。
知らなかった。
同じ時間帯、全国各地で小さな揺れが観測されたことを。
あとで誰かが「全国のウマ娘が同時に情緒を崩したせいでは」と冗談を書き込むことを。
知らなかった。
自分が、今後しばらく「スピカきゅん」と呼ばれることを。
知らなかった。
ただ、一人で部屋に座り、配信終了後の画面を見つめていた。
アーカイブは残した。
コメント欄はまだ動いている。
通知が止まらない。
僕は、机の横に置いた古いノートへ目を向けた。
この世界に、ウィニングライブを作る。
七歳の僕が書いた、歪んだ文字。
その下に、何年もかけて増えていった曲名と、振付のメモと、ステージ案。
僕はそっとノートに触れた。
「……始まった、のかな」
小さく呟く。
まだ、何も変わっていない。
ウィニングライブは、この世界にない。
ウマ娘たちは、まだレース後に歌っていない。
僕が歌っただけだ。
僕が、画面の前で一曲歌っただけ。
それでも。
どこかの誰かに、少しでも届いたなら。
勝てなくて眠れない子が、少しでも眠れたなら。
これから走る子が、少しでも前を向けたなら。
それは、きっと。
最初の一歩だ。
僕はそう思うことにした。
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
興奮と、不安と、ほんの少しの期待で、目が冴えてしまっていた。
けれど、僕が眠れずにいたその同じ夜。
僕の歌を聞いて、久しぶりに眠れたウマ娘がいたことを。
僕は、まだ知らなかった。