第5話 眠れない未勝利

彼女は、勝てなかった。

一度だけなら、悔しかったで済んだ。

二度なら、次こそと思えた。

三度なら、まだ運が向かなかったと言えた。

でも、それが何度も続くと、言葉が変わる。

惜しいね。

頑張ってるね。

あと少しだね。

そして最後には、こうなる。

そろそろ、考えた方がいいかもね。

何を、とは誰も言わない。

でも、わかる。

走ることを、だ。

彼女はベッドの上で膝を抱えていた。

部屋の電気は消してある。

同室の友達は、もう眠っている。

少なくとも、布団の中で静かに呼吸しているように見えた。

窓の外は暗い。

トレセン学園の夜は、昼間とはまるで違う。

昼は、足音がある。

掛け声がある。

トレーニング場から聞こえる声がある。

誰かが笑っている。

誰かが泣いている。

誰かが次のレースの話をしている。

でも夜は、全部が遠くなる。

遠くなった分だけ、自分の中の声が大きくなる。

また負けた。

また届かなかった。

次こそって、何回言った?

あと少しって、あとどれくらい?

彼女は布団をぎゅっと握った。

目を閉じる。

すると、最後の直線が見えた。

前にいる背中。

横から迫る足音。

追いつけない自分の脚。

ゴール板。

歓声。

ため息。

また負けた。

胸の奥がきゅっと縮む。

息が浅くなる。

目を開ける。

天井が見える。

何も変わらない。

眠れない。

ここ数日、ずっとそうだった。

眠ろうとすると、レースが始まる。

夢の中ではなく、頭の中で。

ゲートが開く。

走る。

追う。

抜かれる。

届かない。

また負ける。

だから、眠るのが怖くなった。

走るのは好きだった。

少なくとも、昔はそうだった。

風を切るのが好きだった。

芝を蹴る感触が好きだった。

コーナーを抜けて、前が開ける瞬間が好きだった。

脚が動く。

息が熱くなる。

心臓が跳ねる。

まだ行ける、と思う。

その瞬間が好きだった。

でも今は、ゴールが怖い。

ゴールは、勝てなかった自分を突きつけてくる場所になってしまった。

どれだけ走っても、最後に掲示されるのは順位だ。

一着ではない。

勝者ではない。

未勝利。

その言葉が、彼女の名前にべったりと貼りついている気がした。

「……もう」

小さく声が漏れた。

もう、やめようか。

そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。

やめたくない。

でも、走るのが怖い。

勝てない。

でも、走りたい。

その二つが胸の中でぶつかって、どうにもならなくなる。

スマホが震えた。

彼女は一瞬、肩を跳ねさせた。

こんな時間に、と思いながら画面を見る。

同室の友達からだった。

布団の中で寝ていると思っていた友達が、メッセージを送ってきていた。

『起きてる?』

彼女は少しだけ迷ってから、返した。

『寝てる』

すぐに返信が来る。

『嘘つき』

ベッドの向こう側で、布団がもぞもぞと動いた。

「起きてたの」

「そっちこそ」

小さな声が返ってくる。

友達は布団から顔だけ出していた。スマホの光が、彼女の頬を淡く照らしている。

「眠れない?」

「……寝てる」

「だから嘘つき」

友達は少しだけ眉を下げた。

心配している顔だった。

それがわかるから、彼女は少し目を逸らす。

心配されたくなかった。

でも、心配してほしくないわけでもなかった。

面倒くさい。

自分でもそう思う。

「変な動画、見つけた」

友達が言った。

「今そういうの見る気分じゃない」

「うん。そう言うと思った」

「じゃあ寝かせて」

「寝られてないでしょ」

何も言えなかった。

友達はベッドから降りて、スマホを持ったまま近づいてきた。

「男の人がね、ウマ娘のことを話してるの」

その言葉に、彼女は眉を寄せた。

男の人。

少し苦手な響きだった。

もちろん、全員が嫌いなわけではない。

優しい人もいる。

真面目な人もいる。

きちんとレースを見てくれる人もいる。

でも、レース場で聞こえてくる男性の声には、時々刃が混じっている。

遅い。

使えない。

勝てないなら意味がない。

もっと走れ。

期待外れ。

そういう声を、何度も聞いた。

直接自分に向けられたものではないこともあった。

でも、聞こえるだけで心が削れた。

「見たくない」

「たぶん、そういう人じゃない」

「わからないでしょ」

「うん。わからない。でも……見てほしい」

友達の声が、いつもより真剣だった。

彼女はしばらく黙っていた。

それから、小さくため息をついた。

「少しだけ」

友達が少し笑った。

「うん。少しだけ」

スマホの画面がこちらへ向けられる。

動画は、配信のアーカイブだった。

画面の中に、若い男の人が映っている。

少し緊張しているのがわかった。

姿勢が固い。

視線も、時々ほんの少しだけ揺れる。

でも、目だけはまっすぐだった。

『はじめまして』

彼は言った。

『活動名は、スピカです』

スピカ。

聞き慣れない名前だった。

星の名前だっただろうか、とぼんやり思う。

彼は少し言葉を選ぶようにしながら、それでもはっきりと話し始めた。

『僕は、ウマ娘の走りが好きです』

その瞬間、彼女は小さく息を止めた。

男の人が、ウマ娘の走りが好きだと言った。

それだけなら、珍しくはないのかもしれない。

勝つウマ娘が好き。

速いウマ娘が好き。

強いウマ娘が好き。

人気のあるウマ娘が好き。

そういう言葉なら、聞いたことがある。

でも、画面の中の彼は続けた。

『最後の直線で、苦しそうなのに前を向く姿が好きです』

胸が痛くなった。

『勝った子がゴールした瞬間の表情も好きです』

彼は、そこで少しだけ目を伏せた。

『でも、届かなかった子が、それでも最後まで走り抜く姿も、僕は忘れたくありません』

彼女は、スマホから目を離せなくなった。

届かなかった子。

自分のことを言われている気がした。

そんなはずはない。

彼は自分を知らない。

自分のレースも、きっと見たことがない。

それでも、そう聞こえた。

届かなかった子。

それでも最後まで走った子。

忘れたくない。

そんなふうに言われたことは、一度もなかった。

次こそ頑張れ、は言われた。

惜しかったね、も言われた。

切り替えていこう、も言われた。

でも。

今日走ったことを覚えていたいと、言われたことはなかった。

「……何、この人」

声が震えた。

友達は何も言わなかった。

ただ、隣で一緒に画面を見ていた。

スピカは続ける。

『すべてのウマ娘が、栄光を掴めるわけではないことは、僕も知っています』

彼女の体が、少し強張った。

まただ、と思った。

現実を見ろ。

全員が勝てるわけじゃない。

才能の世界だ。

結果がすべてだ。

そういう言葉の前置きに聞こえた。

でも、違った。

『それでも、ゲートに立つ子がいる。夢を見て、前を向いて、もう一度走ろうとする子がいる』

画面の中の彼の声は、少しずつ熱を帯びていた。

『僕は、そういう姿が好きです』

胸の奥で、何かが崩れた。

好き。

走れるからじゃない。

勝てるからじゃない。

結果が出るからじゃない。

もう一度前を向こうとする姿が好きだと、彼は言った。

彼女は唇を噛んだ。

泣きたくなかった。

こんなことで泣きたくなかった。

でも、目が熱い。

視界が滲む。

スピカが少し笑った。

『話すだけで終わってしまうのも、なんですから』

友達が隣で、小さく息を呑んだ。

『この曲を、歌います』

画面の中の彼が、曲名を告げる。

『まだ何者でもない君が、それでも夢へ走り出すための歌です』

彼女は息を止めた。

『曲名は――メイクデビュー』

音が鳴った。

明るい曲だった。

でも、ただ明るいだけではなかった。

眩しくて、少し怖くて、でも目を逸らせない。

ゲートの前で、心臓が大きく跳ねる瞬間のようだった。

これから始まる。

そう思う曲。

まだ何も掴んでいない。

勝てる保証もない。

期待されているのか、誰にも見られていないのか、それすらわからない。

それでも、走り出す。

そんな曲だった。

スピカの歌は、完璧という言葉だけでは足りなかった。

上手い。

それはそうだと思う。

でも、それよりも先に、必死だった。

届いてほしい。

伝わってほしい。

この曲を、ウマ娘たちへ渡したい。

そんな気持ちが、画面越しでも伝わってくる。

彼女の涙がこぼれた。

自分でも、なぜ泣いているのかわからなかった。

悲しいのか。

嬉しいのか。

悔しいのか。

救われたのか。

全部だった。

勝てなかった。

何度も負けた。

もうやめようと思っていた。

走るのが怖かった。

でも、走るのが好きだった。

その全部が、胸の中でぐちゃぐちゃになって、涙になって落ちていく。

曲が終わった。

画面の中のスピカが、深く頭を下げる。

『ありがとうございました』

それだけで、また涙が落ちた。

動画が終わる。

部屋は静かだった。

友達が、そっとこちらを見る。

「大丈夫?」

彼女は答えようとした。

でも、声が出なかった。

代わりに、体から力が抜けた。

「ちょ、ちょっと!?」

友達の慌てた声が聞こえる。

でも、もう瞼が重い。

久しぶりだった。

こんなふうに、眠気が来るのは。

最後の直線が見えない。

ため息も聞こえない。

負けた瞬間も浮かばない。

代わりに、あの曲が頭の中で流れていた。

まだ走ってもいい。

そう言われた気がした。

彼女は、泣いたまま眠った。

三日ぶりの、深い眠りだった。

翌朝。

彼女が目を覚ますと、友達が椅子に座ったまま寝落ちしていた。

スマホの画面には、例の動画が開きっぱなしになっている。

再生回数は、夜の間に桁が二つ増えていた。

コメント欄は、地獄だった。

無理。

これは無理。

何これ。

現実に存在していいの?

うちの寮で五人倒れた。

先生呼ばれた。

アーカイブ消さないで。

次いつですか。

歌詞ください。

振付ください。

いやまず名前を教えて。

スピカきゅん?

スピカきゅん保護しろ。

いや我々が保護される側だが?

彼女はぼんやりとそれを見つめた。

そして、小さく笑った。

本当に、変な人だと思った。

でも。

次のレースまで、あと六日ある。

彼女はベッドから降りた。

足元に置いていたシューズを見る。

昨日までは、見るだけで胸が苦しかった。

今日も、少し怖い。

怖くないわけじゃない。

でも、触れることはできた。

彼女はシューズを手に取った。

少しだけ汚れている。

前のレースの後、ちゃんと磨けていなかった。

布を出す。

ゆっくりと汚れを拭う。

友達が、椅子の上で目を覚ました。

「……起きた?」

「うん」

「大丈夫?」

彼女は少し考えた。

大丈夫。

その言葉を簡単に使っていいのか、まだわからない。

でも、昨日とは違う。

「眠れた」

そう言うと、友達の顔がくしゃっと歪んだ。

「そっか」

「うん」

「よかった」

「うん」

彼女はシューズを磨きながら、少しだけ笑った。

「今日、走る」

友達が目を丸くする。

「大丈夫?」

「わからない」

正直に答えた。

「でも、走りたい」

その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。

勝てるかどうかはわからない。

次も負けるかもしれない。

また怖くなるかもしれない。

それでも。

走りたい。

その気持ちが、まだ残っていた。

友達はしばらく彼女を見ていた。

それから、小さく笑った。

「じゃあ、朝練付き合う」

「眠そうだけど」

「誰のせいだと思ってるの」

「スピカさん?」

「それはそう」

二人は小さく笑った。

窓の外が、少しずつ明るくなっていく。

朝が来る。

彼女は磨き終えたシューズを床に置いた。

昨日までより、少しだけ綺麗に見えた。

彼女は立ち上がる。

まだ怖い。

でも、走りたい。

その二つを抱えたまま、彼女は部屋を出た。

廊下では、別のウマ娘が寮長に捕まっていた。

「だから、夜中に走りに行くのは駄目です」

「少しだけ、少しだけだから」

「駄目です。走りたいなら朝です。私も付き合います」

「でも今、脚が」

「寝てから走りなさい」

それを見て、彼女は思わず笑った。

わかる。

とてもよくわかる。

あの曲を聞くと、心は眠れる。

でも、脚は走りたがる。

ウマ娘だから、仕方ない。

寮長に連れ戻されるその子と目が合った。

お互い、少しだけ気まずそうに笑う。

その笑みには、昨日までとは違うものが混じっていた。

困ったような。

泣きそうな。

でも、少しだけ楽しそうな。

朝練場へ向かう途中、彼女は空を見上げた。

まだ太陽は低い。

風は冷たい。

でも、胸の奥には昨日の曲が残っている。

メイクデビュー。

まだ何者でもない子が、それでも夢へ走り出すための歌。

自分は、まだ何者でもない。

勝ったこともない。

誰かの期待に応えられているとも思えない。

それでも。

もう一度、ゲートに立ってもいいのかもしれない。

彼女は小さく息を吸った。

走り出す。

速くはない。

すぐに勝てるわけでもない。

でも、脚は前へ出た。

芝を踏む感触が、少しだけ懐かしかった。

風が頬を撫でる。

胸の中で、あの曲が鳴る。

彼女は走った。

昨日より少しだけ、前を向いて。