第9話 秘密会議と中山計画

スピカがトレセン学園を訪れた日から、学園内では静かな忙しさが始まった。

表向きには、何も変わっていない。

生徒たちはいつも通りに登校し、トレーニング場へ向かう。

次のレースに備えて走っている。

寮では相変わらず、夜になるとどこかの部屋から小さくメイクデビューが聞こえてきた。

掲示板では、今日も誰かが書き込んでいる。

スピカきゅんどこ。

ここ。

違う。

そんなやり取りが続いている。

その間にも、理事長室の隣の会議室では、別の会話が進んでいた。

出席者は少ない。

秋川やよい理事長。

駿川たづな。

警備担当。

救護担当。

施設管理担当。

音響担当。

そして、必要最小限の関係者だけ。

資料の表紙には、目立たない文字でこう書かれていた。

中山レース後イベント 初回実施案

その下に、小さく括弧書きがある。

関係者外秘

「秘匿ッ!」

理事長が扇子を広げた。

「本件は、現段階では生徒への告知を行わない!」

「はい」

たづなが頷き、配布資料の一枚目を開く。

「理由は三つあります。まず、実施可否そのものがまだ確定ではありません」

彼女の声は、会議室の空気を落ち着かせるように静かだった。

「次に、生徒たちへ過度な期待を持たせないためです。スピカ様の初配信後の反応を見る限り、事前告知を行えば、レースそのものへの集中に影響が出る可能性があります」

何人かが、深く頷いた。

初配信後の報告書は、すでに全員が読んでいる。

泣いた。

眠れた。

走りに行こうとした。

倒れかけた。

アーカイブを一晩で何度も再生した。

それらは笑い話にも見える。

けれど、学園としては笑って終わらせられない。

良い影響がある。

だからこそ、扱いを間違えれば危うい。

「三つ目に、スピカ様ご本人の安全確保です」

たづなは淡々と言った。

「スピカ様は男性であり、すでに生徒たちから非常に強い注目を受けています。ご本人に悪意がなくとも、接触希望者が殺到すれば事故になります」

「安全第一ッ!」

理事長が大きく頷く。

「彼を守ることは、生徒たちを守ることでもある!」

「はい」

たづなは資料をめくった。

「初回は、スピカ様によるレース後ミニライブ形式とします。出走生徒への歌唱・ダンス参加は求めません」

救護担当が手元の資料に目を落とす。

「レース直後の身体負担を考えると、その判断が妥当です」

「出走後の体調確認を優先します。対象者が希望しても、初回は参加を認めない方針です」

「本人が希望しても、ですか」

「はい」

たづなは即答した。

「初回は前例づくりです。熱量に流されて、走った直後の生徒に無理をさせるわけにはいきません」

理事長が扇子を閉じる。

「段階ッ! まずは見るところから、ということだな」

「はい。手拍子や観覧程度に留めます」

音響担当が手を挙げた。

「曲目はメイクデビューで確定ですか」

「現時点では、その方向でスピカ様から共有を受けています」

会議室の空気が、ほんの少しだけ揺れた。

メイクデビュー。

その曲名を聞いただけで、何人かの耳がぴくりと動いた。

その中には、引退した元ウマ娘の警備担当もいた。

たづなは見なかったことにした。

「音源、歌唱位置、動線については、後ほど個別に確認します」

「ステージは中山競馬場の内側、観客席から見える位置。ただし、出走生徒の退避導線と救護動線を塞がないことを最優先します」

施設管理担当が図面を広げた。

レース場の内側。

観客席。

出走後の導線。

控室。

救護室。

関係者入口。

退避経路。

赤いペンで線が引かれ、青いペンで予備動線が描き込まれていく。

「スピカ様の控室は、一般導線から完全に外します」

「警備は?」

「表に出す人数は最小限に。目立ちすぎると、逆に何かあると知らせてしまいます」

警備担当が頷いた。

「観客側と関係者側で分けます。スピカ様の近辺は、女性警備員と元ウマ娘の警備担当を中心に」

「元ウマ娘の方々には、事前説明を丁寧にお願いします」

たづなの声が少しだけ強くなる。

「スピカ様の配信が、引退した方や競技を離れた方にも響く可能性があります。業務中に動揺しないよう、内容確認と役割確認を徹底してください」

「承知しました」

警備担当が、きりりと返事をする。

その耳が、ほんの少し赤かった。

たづなは、やはり見なかったことにした。

会議は進む。

合言葉。

緊急時の退避先。

音響トラブル時の対応。

スピカが想定外のことを言った場合の進行判断。

理事長が勢いで何かを追加しようとした場合の制止手順。

「最後の項目は何だ、たづな」

「必要事項です」

「必要ッ?」

「必要です」

理事長は少しだけ不服そうに扇子を鳴らしたが、反論はしなかった。

初回は、何より安全第一。

成功例を作ること。

出走したウマ娘に無理をさせないこと。

観客に混乱を起こさせないこと。

スピカを守ること。

そして、スピカが届けようとしているものを、ただの話題性にしないこと。

それが、この秘密会議で何度も確認された。

数日後。

別室で、警備担当者向けの説明が行われた。

参加しているのは、現役を退いた元ウマ娘たちが多い。

全盛期を終えた者。

怪我で競技を離れた者。

勝てずに別の道を選んだ者。

人より身体能力の高いウマ娘は、警備職にも向いている。

けれど、それだけが理由ではなかった。

レース場の空気を知っている。

出走前後のウマ娘の状態を、肌で知っている。

そして、勝てなかった側の気持ちも、知っている。

今回の警備には、その経験が必要だった。

説明の途中で、スピカ本人が入室した。

彼は緊張していた。

それでも、部屋に入るとすぐに深く頭を下げた。

「今日は警備を担当してくださると伺いました。ありがとうございます。よろしくお願いします」

元中距離ウマ娘の警備担当は、敬礼を崩さなかった。

崩さなかった。

かろうじて。

「ギョ、業務、デスノデ」

声が少し裏返っていた。

隣の警備担当が、そっと視線を逸らす。

その耳も赤い。

スピカは気づかない。

「それでも、ありがたいです。僕はこういう場所の実務がわからないので、皆さんがいてくださるのは本当に心強いです」

元中距離ウマ娘の警備担当は、敬礼したまま動かなかった。

プロとして耐えた。

ぎりぎり理性の勝利だった。

たづなは、静かに資料へ目を落とした。

確認事項が増えた。

警備担当の精神面も、少しだけ。

初回会場は、中山競馬場。

その決定を聞いた時、スピカはほんの少しだけ黙った。

「中山、ですか」

「はい」

たづなは頷いた。

「初回実施の条件を検討した結果、導線や会場規模、関係者調整の面から中山が最も現実的だと判断しました」

「そうですか」

スピカは視線を落とした。

鞄の中のノートに、指先が触れる。

「……僕が初めて現地でレースを見たのが、中山でした」

たづなは、わずかに目を細めた。

その話は、初回面談でも少しだけ聞いている。

幼いスピカが、初めて見たレース。

勝ったウマ娘を祝うためのライブが始まると信じていた場所。

けれど、何も始まらなかった場所。

「あの日、僕はウィニングライブがこの世界にないことを知りました」

スピカは静かに言った。

「勝った子は忙しそうに次を見られていて、届かなかった子たちは観客の関心から外れていった。あの時、ここに光があればいいのに、と思ったんです」

会議室の音が、少しだけ遠くなった。

「その場所で、最初の歌を歌えるなら」

スピカは顔を上げた。

「ちゃんと、歌いたいです」

たづなは、すぐには返事をしなかった。

胸の奥に、またあの熱が触れた気がした。

けれど、今は実務だ。

「では、なおさら安全に行いましょう」

彼女はそう答えた。

「スピカ様がちゃんと歌えるように。出走した皆さんが、無理なく受け取れるように」

「はい」

スピカが深く頷く。

中山競馬場。

あの日、何も始まらなかった場所。

今度は、そこで最初の歌が響く。

まだウマ娘たち自身が歌うわけではない。

まだ、ウィニングライブと呼ぶには遠い。

それでも。

欠けていた場所に、初めて音が置かれようとしていた。