第10話 最初の会場
後日。
僕は再び、トレセン学園の関係者用入口の前に立っていた。
前回と同じように、人目につきにくい時間帯だった。
正門ではない。
関係者用の入口。
案内役は、やはり駿川たづなさんだった。
「本日もお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、またお時間をいただきありがとうございます」
僕が頭を下げると、たづなさんは少しだけ柔らかく微笑んだ。
前回よりも、ほんの少しだけ表情が和らいでいるように見えた。
気のせいかもしれない。
けれど、少なくとも前回より緊張はしていない。
僕の方も、少しだけ落ち着いていた。
もちろん、緊張はしている。
でも、今日は前回と違って、話すべきことがかなり具体的だった。
レース後イベント。
ウィニングライブへ向かうための、最初の一歩。
学園側で検討してくれると言ってくれた。
その返事を聞く日だった。
案内された部屋は、前回と同じ理事長室ではなく、少し広めの会議室だった。
テーブルの上には資料が並んでいる。
進行案。
タイムスケジュール。
警備配置図。
観客導線。
救護班の待機場所。
音響機材の確認表。
僕はそれを見た瞬間、思わず息を呑んだ。
僕のノートに書いていた夢の断片が、急に現実の書類になっていた。
それが嬉しくて、同時に少し怖かった。
「歓迎ッ! よく来てくれた、スピカ君!」
奥の席で、秋川やよい理事長が扇子を開く。
「今日は実務ッ! 夢を現実へ近づけるための会議だ!」
「よろしくお願いします」
僕は深く頭を下げた。
会議室には、理事長とたづなさんのほかに、数名の職員がいた。
警備担当。
音響担当。
救護関係者。
進行担当。
皆、表情は真剣だった。
その中には女性のSPらしき人もいる。
背筋が伸びていて、目が鋭い。
僕と目が合うと、軽く会釈された。
僕も慌てて会釈を返す。
こうして見ると、改めて思う。
僕一人では、絶対に無理だった。
ステージに立つことだけを考えていたら、見落としてしまうことが多すぎる。
レース後にイベントをするというのは、ただ歌うことではない。
人が動く。
観客が残る。
出走したウマ娘たちの体調がある。
警備が必要になる。
何かあった時に、誰がどう動くのかを決めておかなければならない。
たづなさんが、資料を手にして立ち上がった。
「では、始めさせていただきます」
その声は、完全に実務の声だった。
「まず結論から申し上げます。スピカ様のご提案を受け、学園としてレース後イベントの試験実施を検討することになりました」
胸の奥が跳ねた。
試験実施。
その言葉が、何より現実味を持っていた。
「ただし」
たづなさんが続ける。
「初回から出走ウマ娘に歌唱やダンスを求めることは、見送るべきと判断しています」
「……はい」
そこは、予想していた。
レース直後のウマ娘に歌って踊ってもらう。
それが僕の見たい景色だ。
でも、いきなりは無理だ。
体調の問題がある。
練習時間の問題がある。
本人たちの意思もある。
僕は頷いた。
「なので、初回はスピカ様によるレース後ミニライブという形式が最も現実的です」
「……はい?」
思わず変な声が出た。
たづなさんは真面目な顔のまま続ける。
「出走ウマ娘たちは、専用エリアで観覧。必要に応じて、手拍子程度の参加は可能とします。歌唱やダンス参加は、今回は行いません」
「えっと」
「はい」
「僕が、歌うんですか」
「はい」
「踊るんですか」
「はい」
「ウマ娘のみなさんは」
「まずは観覧という形になります」
「観覧」
「はい」
僕はしばらく黙った。
理屈はわかる。
とてもわかる。
安全面を考えれば、それが最も現実的だ。
出走ウマ娘たちに負担をかけず、レース後に歌があるという前例を作る。
観客の反応も見られる。
導線や警備も試せる。
僕が歌って踊るなら、練習や体調管理の範囲は僕一人で済む。
わかる。
ものすごくわかる。
でも。
僕が見たいのは、そこではない。
僕が見たいのは、ウマ娘たちが歌って踊る姿だ。
勝った子がセンターで、同じレースを走った子たちも一緒にいる姿だ。
なのに、最初の実証イベントは、僕が歌って踊ることになった。
どうしてこうなるんだろう。
いや、理由はわかる。
わかるから困る。
「ご負担が大きいでしょうか」
たづなさんが尋ねる。
「いえ、負担というより……」
方向が違う。
そう言いかけて、飲み込んだ。
いや、違うわけではない。
これは前進だ。
レース後に歌がある。
レース場にステージがある。
観客がその場に残る。
ウマ娘たちが、レース後の歌を目にする。
今まで存在しなかった文化の、最初の実証。
そう考えれば、これは大きな一歩だ。
たぶん。
……たぶん。
「大丈夫です」
僕は頷いた。
「最初の一歩としては、それが一番安全だと思います」
たづなさんの表情が、少しだけ和らぐ。
「ありがとうございます」
「ただ」
僕は、そこだけは言っておきたかった。
「最終的には、ウマ娘のみなさん自身に歌ってほしいです」
「もちろんです」
たづなさんは迷いなく頷いた。
「段階的に、希望者参加型へ移行することも検討しています」
「本当ですか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
たづなさんの返事は、とても真面目だった。
僕はほっと息を吐く。
その横で、やよい理事長がにこにことしていた。
「安全第一ッ! まずは成功例を作ることが肝要だ!」
「はい」
「レース後に歌があるという事実を、まずは示す! そのためにスピカ君の力を借りる!」
「はい」
「決して、私がスピカ君の歌を生で聞きたいからではない!」
「……はい」
たづなさんが、資料に目を落としたまま答えた。
なぜか間があった。
僕は少しだけ首を傾げる。
理事長は咳払いをした。
「生徒たちのためだ!」
「はい。生徒たちのためです」
たづなさんの声は完璧に平静だった。
けれど、頭の上の猫が理事長をじっと見ていた。
気のせいだろうか。
会議はその後、具体的な内容へ移った。
「初回実施候補ですが」
たづなさんが資料を指す。
「中山競馬場で行われる次のレース後を予定しています」
その言葉に、僕の思考が一瞬止まった。
「……中山競馬場、ですか」
「はい」
中山競馬場。
僕が、初めて本物のレースを見た場所。
初めて、ウィニングライブがこの世界には存在しないと気づいた場所。
あの日、僕は勝ったウマ娘を見て、ステージを待った。
けれど、何も始まらなかった。
父に「終わったぞ、帰るぞ」と言われた。
母に「歌って踊る? レースの後に?」と不思議そうにされた。
あの場所で、最初のレース後ライブをやる。
偶然なのかもしれない。
たづなさんたちは、僕にとって中山競馬場がどういう場所か知らない。
それでも、僕にはそれが、何かの答えのように思えた。
胸の奥が、静かに熱くなる。
「本来であれば、初回はもっと小規模な場を選ぶべきです」
たづなさんが説明を続ける。
「ですが、スピカ様の配信はすでに学園内外で大きな反響を呼んでいます。中途半端な形で実施すると、かえって混乱を招く可能性があります」
「はい」
「そのため、関係者と調整した上で、導線・警備・救護を整えられる中山競馬場での実施を検討しています」
やよい理事長が、扇子を開いた。
「初陣ッ! やるならば、万全の場で行う!」
「中山側とも、すでに内々に調整を始めています」
たづなさんは補足する。
「もちろん、最終決定ではありません。安全面、進行面、スピカ様ご自身の負担などを確認した上で判断します」
「はい」
僕は、ゆっくり頷いた。
中山競馬場。
あの場所に、歌が響く。
あの日、何も始まらなかった場所で、今度は僕が歌う。
本当なら、ウマ娘たち自身に歌ってほしい。
でも、最初は僕でもいい。
そこから始めるしかない。
「やります」
気づけば、そう言っていた。
たづなさんが僕を見る。
「もちろん、無理は禁物です。最終判断はまだ――」
「はい。そこはわかっています」
僕は頷く。
「でも、もし実施できるなら、やりたいです」
中山競馬場で。
あの日の欠落を、少しだけ埋めるために。
たづなさんは、少しだけ目を伏せた。
「承知しました」
会議は続く。
「なお、今回は事前告知を行いません」
「え」
僕は思わず顔を上げた。
たづなさんも、ほんの少しだけ目を伏せる。
理事長が扇子を開いた。
「驚喜ッ! サプライズこそ心を動かすものだ!」
「理事長」
たづなさんが静かに言う。
「今回は、あくまで混乱を避けるためです」
「無論ッ!」
理事長は力強く頷く。
「事前に告知すれば、人が集まりすぎる。生徒たちも過度に意識する。ならば当日まで伏せ、準備だけを万全にする。それが最善だ!」
「はい。その理由もあります」
たづなさんは、淡々と説明する。
「スピカ様が出演されると事前に告知した場合、観客数が想定を超える恐れがあります。また、出走ウマ娘たちが過度に緊張したり、期待を抱きすぎたりする可能性もあります」
「なるほど」
「ですので、関係者間では準備を進めますが、一般告知は行いません。当日はレース終了後、場内アナウンスでスペシャルイベントとして案内します」
突然のステージ。
でも、裏では学園側と関係者が準備している。
導線も、警備も、救護もある。
それなら、現実的だ。
「わかりました」
僕は頷いた。
「僕も、事前に出走するウマ娘のみなさんに余計な負担をかけたいわけではありません」
「ありがとうございます」
「ただ、当日驚かせすぎてしまわないかは心配です」
「そこは……」
たづなさんが一瞬だけ理事長を見る。
理事長は胸を張った。
「感動ッ!」
「理事長」
「……配慮ッ!」
たづなさんが小さく息を吐く。
「驚きはあると思います。ただし、救護班とスタッフを増員し、観客席の動きにも注意を払います」
「救護班」
「はい」
そこまで必要なのか。
そう思ったが、初配信後の反応を考えると、必要なのかもしれない。
僕は少しだけ複雑な気持ちになった。
僕はウマ娘たちに歌ってほしいだけなのに。
なぜ、僕が歌うだけで救護班の話になるのだろう。
会議は続いた。
ステージの大きさ。
曲数。
持ち時間。
移動ルート。
控室。
衣装。
警備。
僕の入退場導線。
万が一観客がステージへ近づこうとした場合の対応。
その一つ一つが、僕には新鮮だった。
僕は歌うことと踊ることばかり考えていた。
でも、イベントにはそれ以外が必要だった。
たづなさんは、それを淡々と整理していく。
「スピカ様の控室はこちらを予定しています」
「はい」
「ステージまではこちらの導線を使います。観客から見えないルートです」
「はい」
「警備担当が前後につきます」
「はい」
「もし体調に不安がある場合は、直前でも中止可能です」
「中止ですか」
「はい。無理は禁物です」
たづなさんは、まっすぐに僕を見た。
「スピカ様も、守る対象です」
その言葉に、僕は少し戸惑った。
「僕は、そこまでしていただくほどでは」
「男性であるというだけでも、警備上は重要です」
たづなさんはきっぱりと言った。
「加えて、スピカ様は現在、多くの生徒や観客から注目されています。ご本人が思っている以上に、影響力があります」
「……はい」
まだ、その実感は薄かった。
僕はただ、配信で一曲歌っただけだ。
それでも、周囲はそう見ていない。
それを受け入れなければならないのかもしれない。
警備担当の女性が、静かに口を開いた。
「当日は、我々が安全を確保します。スピカ様は、進行スタッフの指示に従ってください」
「わかりました。よろしくお願いします」
僕が頭を下げると、警備担当の女性は一瞬だけ表情を止めた。
そして、すぐに真面目な顔で頷く。
「……任務ですので」
なぜか、少しだけ声が硬かった。
会議が終わる頃には、頭がいっぱいになっていた。
それでも、方向性は決まった。
中山競馬場。
レース後。
サプライズのスペシャルイベント。
スピカによるミニライブ。
出走ウマ娘たちは観覧。
いずれ、希望者参加型へ移行するための試験。
僕の理想とは、少し違う。
いや、かなり違う。
でも、進んでいる。
そう思うことにした。
「スピカ君」
会議の最後、やよい理事長が声をかけた。
「はい」
「君の夢を、そのまま一足飛びに実現することはできん」
「はい」
「だが、最初の一歩は作れる」
理事長は扇子を閉じる。
「その一歩を、共に作ろう」
僕は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「はい。よろしくお願いします」
深く頭を下げた。
会議室を出ると、廊下の窓からトレーニングコースが見えた。
何人ものウマ娘たちが走っている。
まだ、彼女たちは何も知らない。
中山競馬場で、レース後に歌が響く日が近づいていることを知らない。
それを見て、僕は小さく息を吐いた。
いつか。
いつか、あそこを走る子たちが、自分のレースの後に歌ってくれる日が来るだろうか。
今はまだ、僕が歌う。
でも、続けていけば。
いつか、一緒に踊りたいと言ってくれる子が出てくるかもしれない。
その中から、歌やダンスそのものが好きになる子も出てくるかもしれない。
アイドルみたいにステージを目指すウマ娘だって、現れるかもしれない。
そう思うと、胸が少しだけ軽くなった。
遠回りかもしれない。
でも、進んではいる。
たぶん。
……たぶん。
その夜。
トレセン学園の理事長室では、まだ明かりがついていた。
たづなさんが、会議資料を確認している。
やよい理事長は、机の上に広げられたステージ配置図を見ていた。
「たづな」
「はい」
「初回は、スピカ君本人によるライブが妥当だな」
「はい。安全面、練習時間、出走後の体調管理を考えると、それが最も現実的です」
「うむ。現実的ッ!」
「はい。現実的です」
「……」
「……」
「決して、私が見たいからではない」
「はい」
「生徒たちのためだ」
「はい」
「たづな」
「はい」
「君も、見たいと思っているだろう」
たづなさんは、資料を揃える手を止めなかった。
「業務上、確認は必要かと」
「必要ッ!」
理事長は満足げに頷いた。
頭の上の猫だけが、疑わしそうに鳴いた。
たづなさんは咳払いをする。
「それより、当日の警備計画です」
「うむ」
「サプライズ形式にする以上、想定外の反応が起きる可能性があります」
「感動ッ!」
「混乱です」
「……混乱ッ」
「救護班は通常より多めに配置します。警備導線も二重にします。スピカ様の控室周辺は関係者以外立ち入り禁止。入退場ルートは当日まで一部スタッフのみに共有します」
「徹底ッ!」
「また、出走ウマ娘たちにも事前には伝えません」
「うむ。過度な緊張を避けるためだな」
「はい」
たづなさんは、そこで少しだけ視線を落とした。
「もし、この交渉や実施がうまくいかなかった時、生徒たちに不要な期待を持たせたくありません」
「そうだな」
理事長の声が少しだけ静かになる。
「期待は、時に力になる。だが、叶わなかった時の痛みも大きい」
「はい」
「だからこそ、私たちが先に形にせねばならん」
「はい」
「そして、形になった時には」
理事長は、窓の外を見た。
夜のトレーニングコースは静かだった。
「思いきり驚かせてやろう」
「理事長」
「配慮を持ってだ」
「……はい」
たづなさんは軽くため息をついた。
けれど、その表情にはほんの少しだけ笑みがあった。
誰にも知られないところで、準備は進んでいく。
中山競馬場。
ステージ。
音響。
警備。
救護。
進行。
そして、スピカの歌。
それはまだ、ウマ娘たち自身のウィニングライブではない。
けれど、レース後に歌があるという前例を作るための、最初の公式な一歩だった。
その一歩が、どれほどの騒ぎを起こすのか。
その時点では、まだ誰も正確には理解していなかった。
たづなさんを除いて。
いや。
たづなさんも、たぶん半分くらいしか理解していなかった。