第12話 中山に星が降る
中山競馬場に、見慣れないものがあった。
最初にそれに気づいたのは、早めに入場していた観客の一人だった。
「……あれ、何?」
彼女はスタンド席から内側を見下ろし、首を傾げた。
レース場の中央付近。
普段なら芝の緑とコースの曲線が目に入る場所。
そこに、何やら小さなステージのようなものが設営されている。
派手ではない。
けれど、明らかに普通の設備ではなかった。
音響機材らしきもの。
照明。
簡易的なステージ。
関係者らしいスタッフ。
何かのイベントだろうか。
「スポンサー企画?」
「表彰式の特別版?」
「新しいファンサービス?」
「いや、聞いてないけど」
観客たちは不思議そうに囁き合った。
そのざわめきは、やがて出走ウマ娘たちの耳にも入った。
控室に向かう途中、何人かのウマ娘がちらりとステージの方を見る。
「何かやるのかな」
「イベント?」
「今日、そんな予定あった?」
「知らない」
ほとんどの子は、そう言って流した。
レース前だ。
気にしている余裕はない。
でも、中には足を止める子もいた。
初配信を見ていた子。
毎晩アーカイブを聞いていた子。
掲示板で「スピカきゅんどこ」と書き込んだことのある子。
彼女たちは、そのステージを見た瞬間、ほんの少しだけ耳を立てた。
「……まさか」
誰かが呟く。
すぐ隣の友達が、慌てて首を振った。
「ないない」
「だよね」
「さすがにない」
「中山だよ?」
「うん。ない」
「でも」
「やめて。期待したら死ぬ」
そう言いながら、全員がもう一度ステージを見た。
内心では、同じことを考えていた。
ステージ。
レース場。
歌。
スピカ。
いや、そんなわけがない。
初配信からしばらく、彼は表には出ていない。
アーカイブだけが残っている。
掲示板では毎日のように名前が出るけれど、それはもう半分夢みたいなものになりかけていた。
画面の向こうにいた、優しい男の人。
ウマ娘の走りが好きだと言った人。
メイクデビューを歌った人。
その人が、いきなり中山競馬場に現れるなんて。
あるわけがない。
そう思うのに。
ステージから目が離せなかった。
その頃、ステージ裏では、別の緊張が走っていた。
僕は控室で、深く息を吸っていた。
中山競馬場。
あの日、初めて本物のレースを見た場所。
勝ったウマ娘を見て、ライブが始まると思った場所。
でも、何も始まらなかった場所。
父に「終わったぞ、帰るぞ」と言われた場所。
この世界にはウィニングライブがないのだと、初めて知った場所。
その中山競馬場で、今日、レース後に歌う。
偶然なのかもしれない。
でも、僕には偶然だとは思えなかった。
あの日、何も始まらなかった場所で、今度は僕が最初の一歩を置く。
まだウマ娘たちのウィニングライブではない。
僕が歌って、僕が踊るだけだ。
それでも、レース後に歌があるという前例になる。
そう思えば、手の震えも少しだけ意味のあるものに感じられた。
控室の扉がノックされる。
「スピカ様、そろそろ移動です」
たづなさんの声だった。
「はい」
僕は立ち上がる。
衣装は、派手すぎないものにした。
ステージ用ではあるけれど、主役になりすぎないように。
そうお願いしたつもりだった。
ただ、衣装担当の人たちは「スピカ様がステージで見えにくくなるのは困ります」と言って、結局かなり舞台映えする形に仕上げてくれた。
ありがたい。
ありがたいけれど、少しだけ違う。
僕が目立ちたいわけではないのに。
でも、今日は僕が歌うしかない。
僕は小さく息を吐いた。
控室を出ると、警備担当の女性たちが待機していた。
その中には、引退したウマ娘もいると聞いている。
全盛期を過ぎた人。
怪我で競技を離れた人。
別の道を選んだ人。
今は走る側ではなく、守る側に立っている人たち。
僕は足を止め、頭を下げた。
「今日は警備を担当してくださって、ありがとうございます。よろしくお願いします」
廊下の空気が、一瞬だけ止まった。
目の前の警備担当の人は、背筋を伸ばしたまま動かない。
敬礼も崩れていない。
表情も変わっていない。
ただ、返事だけが少し遅れた。
「ギョ、業務、デスノデ」
カタコトだった。
隣の警備担当が、ほんのわずかに視線を向ける。
「……業務中」
「ワカッテイマス」
僕は少し首を傾げた。
緊張しているのだろうか。
いや、警備の人が緊張するはずはない。
僕の方こそ緊張している。
「僕が安心して歌えるのは、皆さんが支えてくださっているからです」
そう言うと、今度は別の警備担当の耳がぴくりと動いた。
「本当に、ありがとうございます」
「ハイ」
返事は短かった。
でも、敬礼は崩れていなかった。
プロだと思った。
僕はもう一度頭を下げて、ステージ裏へ向かった。
僕の背後で、無線が小さく鳴る。
『対象者、移動開始』
『前方導線、異常なし』
『ステージ袖、待機完了』
『了解』
その声は冷静だった。
ただ一人だけ、マイクに乗らない程度の小さな声で呟いた。
「……理性、勝利」
何のことかは、僕にはわからなかった。
やがて、レースの時間が近づいた。
ファンファーレが鳴る。
観客席が揺れる。
今日の出走ウマ娘たちが姿を見せる。
ステージへの違和感は、いったん熱狂の中に飲み込まれた。
ゲートへ向かう彼女たちの背中に、観客の視線が集まる。
それぞれが、それぞれの緊張を抱えていた。
勝ちたい。
負けたくない。
届きたい。
認められたい。
次につなげたい。
いつも通りのレースだった。
いや、少しだけ違ったかもしれない。
観客席の一部で、別の期待がくすぶっていた。
ステージは何のためなのか。
もしかして。
いや、まさか。
そんな思いが、レースの熱に混じっていた。
けれど、ゲートが開いた瞬間、その全部が吹き飛んだ。
ウマ娘たちが走り出す。
足音が重なり、芝が弾ける。
実況が名前を叫ぶ。
先頭争い。
中団の駆け引き。
後方で脚を溜める子。
最終コーナー。
観客席の声が一段大きくなる。
直線。
一人が抜け出す。
後ろから追う。
差が詰まる。
もう一度、先頭の子が粘る。
最後の数十メートル。
観客席が一つの音になった。
そして、ゴール。
勝者が決まった。
勝ったウマ娘は、息を切らしながら拳を握った。
届かなかった子は、歯を食いしばった。
何人かはうつむき、何人かは空を見上げ、何人かはトレーナーの元へ歩いていく。
いつもの光景だった。
勝者がいて、敗者がいる。
歓声は勝者へ向かい、敗者はゆっくりと光の外へ下がっていく。
いつもの、はずだった。
観客たちが席を立とうとした、その時。
場内アナウンスが響いた。
『本日ご来場の皆さまへ、お知らせいたします』
ざわめきが起きる。
『ただいまより、スペシャルイベントを開催いたします』
スタンドのあちこちで、動きが止まった。
『どうぞそのまま、お席を立たずにお待ちください』
何?
イベント?
やっぱりあのステージ?
観客席がざわつく。
出走を終えたウマ娘たちも、足を止めた。
勝った子も、負けた子も、同じようにステージの方を見る。
ステージ周辺では、警備担当が静かに配置についた。
前方エリアを押さえる者。
観客席の立ち上がりを確認する者。
出走ウマ娘側の様子を見る者。
救護班と無線をつなぐ者。
誰も声を荒げない。
けれど、空気は明らかに張っていた。
照明が入った。
まだ昼の明るさが残る競馬場で、ステージだけが少し違う空気を帯びる。
スタッフが動く。
マイクが用意される。
音響が調整される。
観客のざわめきが、少しずつ大きくなる。
そして。
僕は、ステージへ上がった。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
競馬場が静まり返った。
顔が見えた。
姿が見えた。
画面の向こうで見た、あの青年。
そう思った人がどれだけいたのかは、僕にはわからない。
ただ、ステージから見たスタンドの空気が、目に見えて変わったことだけはわかった。
次の瞬間、競馬場が爆発した。
「えっ」
「本物!?」
「スピカ!?」
「スピカきゅん!?」
「嘘でしょ!?」
「いた!」
「実在した!」
歓声というより、悲鳴に近かった。
女性客の多いスタンドが一斉に揺れる。
ウマ娘たちの耳が立つ。
出走直後で息も整っていない子たちが、目を見開いた。
観客席では、誰かが立ち上がり、隣の友人に引っ張られて座らされる。
別の場所では、端末を取り出そうとして手が震えている子がいる。
警備担当が一斉に動いた。
ステージ前方へ一歩出ようとした観客を、丁寧に制する。
出走ウマ娘エリアでふらついた子に、救護スタッフが近づく。
元短距離ウマ娘の警備担当が、観客席の動きを見ながら無線に応答する。
『前方、立ち上がり多数。移動はなし』
『出走者エリア、一名ふらつき。救護対応中』
『ステージ袖、異常なし』
声は冷静だった。
ただし、警備担当の一人の尻尾が大きく揺れていた。
隣の同僚が小さく言う。
「業務中」
「ワカッテイマス」
またカタコトだった。
僕はマイクを持った。
正直、想像よりずっと大きな反応だった。
足元が少しだけ浮くような感覚がある。
でも、ここで浮ついてはいけない。
僕がここに立っているのは、僕を見てもらうためではない。
今日走ったウマ娘たちへ、歌を届けるためだ。
僕は深く頭を下げた。
その仕草だけで、また歓声が起きる。
顔を上げ、マイクに向かう。
「はじめまして。あるいは、配信ではこんばんは、でしょうか」
競馬場が再び揺れた。
「活動名、スピカです」
その一言に、スタンドの一部で悲鳴が上がった。
本人が名乗った。
現実にいる。
そういう空気が、ステージ上にまで伝わってくる。
僕は少しだけ息を整え、出走ウマ娘たちの方を向いた。
「まずは、本日このレースを走ったすべてのウマ娘の皆さんへ」
その瞬間、出走者エリアの空気が変わった。
僕の声が、マイクを通して中山競馬場に響く。
「本当に、お疲れさまでした」
何人かのウマ娘が、顔を上げた。
勝った子だけではない。
届かなかった子も。
着外に沈んだ子も。
悔しそうに唇を噛んでいた子も。
自分も含まれているのだと、理解するのに少し時間がかかったのかもしれない。
観客席の一角で、誰かが息を呑む。
警備担当の元中距離ウマ娘は、一瞬だけ視界が白くなった。
けれど無線が鳴る。
『出走者エリア、反応大。救護班待機』
「了解」
声は戻っていた。
プロだった。
僕は続ける。
「一着になった方、本当におめでとうございます。最後まで先頭を譲らず走り切った姿は、とても素晴らしかったです」
勝ったウマ娘が、目を見開いた。
隣にいたトレーナーらしき女性が、そっと背中を支える。
「そして、届かなかった方も。最後まで走り抜いた皆さんの姿も、僕は本当にすごいと思っています」
空気が変わった。
観客席も、出走者たちも、少しだけ静かになる。
「レースは、一着の方だけでできているわけではないと思っています」
僕は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「追いかけた人がいる。粘った人がいる。仕掛けた人がいる。届かなくても、最後まで前を向いた人がいる」
何人かのウマ娘が、顔を伏せた。
「だから、今日走った皆さん全員に、拍手を送りたいです」
静寂の後。
拍手が起きた。
最初は小さかった。
ぱらぱらと、どこか遠慮がちに。
けれど、すぐに広がった。
スタンド全体へ。
勝者だけではなく、出走したすべてのウマ娘たちへ。
普段なら、レース後の拍手は勝者へ向かう。
敗者へ向けられる拍手は、慰めのように聞こえることもある。
けれど、この拍手は少し違った。
走ったことそのものへ向けられている。
そんなふうに感じた子がいた。
その子は、思わず泣いた。
勝っていないのに。
褒められる順位ではなかったのに。
それでも、今日の自分が少しだけ消えずに残った気がした。
僕は、拍手が収まるのを待ってから、もう一度マイクを握り直した。
「僕は、ずっと見たい景色があります」
観客席が静まる。
「勝ったウマ娘が、胸を張って真ん中に立つ。そこは、ちゃんと大切にしたいです」
勝者がセンター。
その言葉に、勝ったウマ娘が少しだけ息を呑む。
「でも、同じレースを走った方たちも、同じ場所にいる。悔しいままでも、泣きそうでも、それでも一緒に歌って踊る」
何を言っているのか、わからない人もいただろう。
この世界に、そんな文化はない。
レース後に歌う。
勝った子だけでなく、負けた子も同じ舞台に立つ。
それは、常識から見れば奇妙な話だった。
でも、初配信を見ていたウマ娘たちは、その言葉に胸を掴まれた。
メイクデビュー。
あの曲の意味が、少しだけ形になって見えた気がした。
「それが、僕の見たいウィニングライブです」
ウィニングライブ。
その言葉を、現実のレース場で初めて聞いた者がほとんどだった。
誰かが呟く。
「ウィニングライブ……」
別の誰かが、同じ言葉を繰り返す。
聞き慣れない言葉なのに、不思議と胸に残る。
僕は、少しだけ照れたように笑った。
「今日はまだ、僕が歌います」
スタンドは爆発した。
「歌う!?」
「生で!?」
「待って!」
「心の準備が!」
「無理!」
無理、と言いながら誰も帰らない。
無理、と言いながら全員がステージを見ている。
出走ウマ娘たちも同じだった。
レース後で疲れているはずなのに、誰一人として目を逸らさない。
その中で、僕は続けた。
「でも、いつかは」
歓声の間を、声が通る。
「ウマ娘の皆さん自身が、この場所で歌ってくれたら嬉しいです」
その言葉に、出走ウマ娘たちは複雑な顔をした。
歌う?
自分たちが?
レース後に?
スピカと?
いや、スピカが?
理解が追いつかない。
ただ一つだけ、多くのウマ娘の心に同じ思いが浮かんだ。
スピカが歌ってくれるなら、聞きたい。
本人の願いとは、微妙に違った。
あわれスピカ。
しかし、僕はもちろんそんなことに気づいていない。
「それでは、聞いてください」
音響が入る。
あの前奏が流れた瞬間、スタンドの空気が変わった。
メイクデビュー。
初配信で全国のウマ娘たちを焼いた曲。
眠れない未勝利を眠らせ、夜中に走り出そうとする子を寮長に連れ戻させ、掲示板に無数のスレを立てさせた曲。
その曲が、今、現実のレース場で鳴っている。
僕は歌い始めた。
配信越しではない。
画面越しでもない。
同じ空の下、同じレース場で、声が響いている。
観客席の誰かが泣いた。
出走ウマ娘の一人が、両手で口元を押さえた。
勝ったウマ娘が、涙をこらえるように空を見上げた。
負けたウマ娘が、顔を伏せたまま肩を震わせた。
警備担当の引退ウマ娘が、一瞬だけ耳を立てた。
無線が入る。
『前方、観客立ち上がり。抑制』
「了解」
耳は戻った。
足も動いた。
プロだった。
ただ、尻尾だけが一度大きく揺れた。
隣の警備担当が小さく言う。
「業務中」
「わかっています」
今度はカタコトではなかった。
ぎりぎり、成長していた。
歌は、レース場を包んでいく。
まだ何者でもない子が、夢へ走り出すための歌。
勝った子にも、届かなかった子にも、これから走る子にも、もう走るのが怖くなっている子にも。
その全部へ向けて、僕は歌っていた。
振付は、配信の時よりずっと整って見えたと思う。
何度も練習した。
あの光景を、この世界で少しでも壊さずに届けるために。
男性の身体で、ウマ娘のステージを再現しようとしている。
軽やかさでは、きっとウマ娘に届かない。
でも、そこに込めた熱量だけは、誰にも負けたくなかった。
観客席のウマ娘が呟いた。
「……ずっと練習してたんだ」
隣の子が、泣きながら頷く。
「私たちに、届けるために」
曲が終わった。
一瞬の静寂。
そして、拍手と歓声が中山競馬場を包んだ。
さっきのレースとは違う熱だった。
勝敗への熱ではない。
誰かを祝う熱。
誰かを見つけた熱。
何かが始まったことへの熱。
僕は息を切らしながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
歓声は止まらない。
しばらくして、僕はもう一度マイクを持った。
「それと、もう一つ」
観客席が反応する。
まだ何かあるのか。
これ以上、心がもつのか。
僕は少し申し訳なさそうに笑った。
「初配信から、ずいぶん間が空いてしまってすみません」
スタンドのあちこちから、声にならない声が上がる。
そうだ。
待っていた。
ずっと待っていた。
アーカイブだけで生きていた。
「今後は、定期的に配信を行っていく予定です」
競馬場が再び爆発した。
レースよりも揺れたのではないか、と誰かが後に書き込むほどだった。
「もしよければ、また聞きに来てください」
もしよければ。
その控えめな言葉に、客席のウマ娘たちは一斉に思った。
行くが?
這ってでも行くが?
配信だけど。
ステージ袖で、たづなさんが額を押さえていた。
やよい理事長は、満面の笑みで扇子を広げている。
「快挙ッ!」
たづなさんの胃は、たぶんその時点で少しだけ削れた。
僕は最後にもう一度、出走ウマ娘たちへ頭を下げた。
「本当に、お疲れさまでした」
その言葉で、また何人かが泣いた。
イベントが終わる。
ステージの照明が落ちる。
観客はしばらく席を立てなかった。
勝った子も、届かなかった子も、観客席のウマ娘たちも、誰もが何かを受け取っていた。
それが何なのか、まだ言葉にはできない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
アーカイブの中にいたスピカは、現実にいた。
そしてこの日。
中山競馬場に、レース後の歌が初めて響いた。
それは、まだウマ娘たちのウィニングライブではなかった。
スピカが歌っただけだ。
彼が見たい景色には、まだ届いていない。
それでも。
ゴールの先に歌がある。
その前例が、この世界に生まれた。
ほんの小さな一歩。
けれど、確かな一歩だった。
そしてもちろん。
その夜の掲示板は、また燃えた。