第16話 NEXT FRONTIER

フラワーカップ当日。

中山競馬場の空気は、前回とは少し違っていた。

前回は、誰も知らなかった。

レース場にステージがあることを不思議に思いながらも、それが何のためのものなのか、ほとんどの観客はわかっていなかった。

でも、今日は違う。

事前告知があった。

フラワーカップ終了後、レース後イベントを実施する。

出演はスピカ。

その告知だけで、観客席の熱は明らかに上がっていた。

もちろん、今日の主役はレースだ。

フラワーカップ。

出走するウマ娘たちにとって、大切な一戦であることに変わりはない。

けれど、そのレース後にスピカがいる。

スピカが歌う。

その事実は、観客にも、出走するウマ娘たちにも、確かに影響を与えていた。

パドックを歩くウマ娘たちは、どこか表情が硬かった。

普段なら、もっと落ち着いているはずの子もいる。

耳が忙しなく動いている子。

尻尾を落ち着かなさそうに揺らしている子。

トレーナーに何度も声をかけられている子。

その様子を、僕は控室のモニター越しに見ていた。

「……緊張、してますね」

思わず呟く。

隣にいたたづなさんが、資料から顔を上げた。

「はい。いつものレース前とは、少し違う緊張が見られます」

その声は落ち着いている。

けれど、言葉の意味は軽くなかった。

「僕のせい、でしょうか」

たづなさんは、すぐには答えなかった。

その沈黙だけで、答えはわかってしまった気がした。

「スピカ様だけが原因ではありません」

やがて、たづなさんはそう言った。

「フラワーカップそのものが大きなレースです。出走する生徒たちは、それぞれに思いを背負っています」

「はい」

「ただ、レース後イベントが彼女たちの意識に影響していることも事実です」

胸の奥が、少し重くなる。

僕はウマ娘たちを応援したかった。

勝った子も、届かなかった子も、走ったことを大切にできる場所を作りたかった。

でも、その場所があることで、レース前の彼女たちに余計な緊張を与えているのだとしたら。

それは、ちゃんと考えなければならないことだった。

「本当に、難しいですね」

「はい」

たづなさんは資料を閉じた。

「だからこそ、今回の結果を踏まえて、次につなげる必要があります」

「……はい」

ステージ袖の方から、音響確認の声が聞こえる。

今日披露する曲は、NEXT FRONTIER。

曲そのものは、事前に学園側へ共有していた。

たづなさんも内容は知っている。

ただし、当日の演出と曲紹介の細かい言葉までは、まだ僕の中で固まりきっていなかった。

理事長は、なぜかそれを楽しみにしているようだった。

たづなさんは、たぶん少しだけ警戒している。

いや、かなり警戒しているかもしれない。

僕はモニターへ視線を戻した。

パドックの一角。

一人のウマ娘が、担当トレーナーに両肩を押さえられるようにして話を聞いていた。

栗色の髪。

緊張で耳が立ちっぱなしになっている。

トレーナーは何度も、落ち着いて、と言っているように見えた。

そのウマ娘は何度も頷いている。

でも、目はどこか上の空だった。

スピカがいる。

レース後にスピカが歌う。

もしかしたら、そう考えているのかもしれない。

僕は拳を握った。

どうか。

どうか、レースでは自分の走りをしてほしい。

僕のことなんて、考えなくていい。

そう願っても、きっと届かない。

僕は歌うことしかできない。

レース中の彼女たちに、何かをしてあげることはできない。

やがて、出走ウマ娘たちがゲートへ向かった。

観客席のざわめきが大きくなる。

僕は控室からステージ袖へ移動した。

警備担当が前後につく。

その中には、前回カタコトで返事をしてくれた元中距離ウマ娘の警備担当もいた。

今日は表情がさらに引き締まっている。

僕は小さく頭を下げた。

「今日もよろしくお願いします」

「ギョ……よろしくお願いします」

途中で持ち直した。

すごい。

プロだ。

隣の警備担当が小さく頷いた。

「理性、勝利」

「聞こえています」

「失礼しました」

緊張していた僕は、そのやり取りで少しだけ肩の力が抜けた。

ファンファーレが鳴る。

フラワーカップが始まる。

ゲートインするウマ娘たちは、やはりどこか浮かない様子だった。

担当トレーナーたちが最後まで声をかけている。

「落ち着いて」

「いつも通り」

「レースに集中して」

「スピカさんのことは考えないで」

その言葉は、たぶん逆効果だった。

何人かの耳が、ぴくりと動いた。

ゲートが閉まる。

一瞬の静寂。

そして、スタート。

ウマ娘たちが一斉に飛び出した。

速い。

スタートから、いつも以上に前へ行こうとする空気があった。

位置取り争いが激しい。

先頭に立ちたい。

前で見せたい。

今日のレースで勝ちたい。

その思いが、画面越しでも伝わってくるようだった。

実況の声が高くなる。

観客席も沸く。

けれど、僕は胸の奥が少し冷えていくのを感じていた。

いつもより、無理をしている子がいる。

そんな気がした。

向こう正面。

中団の一人が、少し掛かり気味に前へ出ようとする。

担当トレーナーらしき人が、観客席側で身を乗り出すのが見えた。

抑えて。

たぶん、そう言っている。

でも、レース中の彼女には届かない。

前に出たい。

勝ちたい。

見てほしい。

その思いが、脚を急がせる。

コーナーへ入る。

密集した位置取り。

その中で、ほんの少し、動きが乱れた。

「あっ」

誰かが声を漏らした。

一人のウマ娘が、もつれた。

完全に脚を取られたわけではない。

それでも、体勢が崩れる。

周囲のウマ娘たちは必死に避ける。

彼女は芝の上に転がった。

観客席から悲鳴が上がる。

僕の息が止まった。

すぐに救護スタッフが動く。

彼女は立ち上がった。

足を確かめる。

大きな怪我はないらしい。

そのことに、まず安堵した。

でも、レースはもう大きく動いていた。

先頭集団は遥か前。

彼女は、大きく離された位置から、もう一度走り出した。

勝負にはならない。

誰が見ても、そうだった。

それでも彼女は走った。

遅れて、ただ一人で。

ゴールへ向かって。

胸が痛かった。

レースは、そのまま大差で決着した。

勝ったウマ娘は強かった。

最後の直線で、力強く抜け出した。

その勝利は見事だった。

でも、観客席の空気には、転倒の影が少し残っていた。

僕も同じだった。

勝った子を祝いたい。

心から称えたい。

でも、転んだ子の背中が頭から離れない。

レースが終わり、僕はステージ袖で出番を待つ。

たづなさんが近づいてきた。

「転倒した生徒に大きな怪我はありません」

「よかった……」

「ただ、かなり動揺しています」

「……はい」

「スピカ様」

たづなさんは、僕をまっすぐ見た。

「声をかけること自体は止めません。ですが、長くなりすぎないようにしてください」

「はい」

「救護とメンタルケアはこちらで対応します」

「はい」

わかっている。

僕が行って全部解決できるわけじゃない。

でも、言いたいことがあった。

最後まで走ったことを、ちゃんと見ていたと。

場内アナウンスが入る。

レース後イベントの案内。

観客席がざわめく。

もうスピカが出ることは事前に知られている。

それでも、実際にアナウンスされると熱は跳ね上がった。

僕はステージへ向かう。

警備担当が前後につく。

出走ウマ娘たちが、専用エリアに案内されていた。

勝った子は、まだ息を整えている。

届かなかった子たちは、悔しそうな顔をしている。

そして、転んだ子は少し離れた場所にいた。

顔を上げられていない。

僕はマイクを持った。

歓声が上がる。

その熱に飲まれないように、深く息を吸う。

「本日、フラワーカップを走ったすべてのウマ娘の皆さんへ」

声が会場に響く。

「本当に、お疲れさまでした」

拍手が起きる。

前回よりも、少し早く。

中山での最初のイベントを見た人たちがいるからだろう。

勝った子だけではない。

走った全員へ向ける拍手。

その空気が、少しだけ生まれ始めている。

「一着になった方、本当におめでとうございます。最後の直線で見せた加速は、本当に素晴らしかったです」

勝ったウマ娘が、顔を上げた。

「そして、届かなかった方も。今日ここで、最後まで走った皆さんの姿を、僕は見ていました」

何人かが顔を伏せる。

僕は、少しだけ視線を移した。

転倒したウマ娘。

彼女の肩が、小さく震えていた。

「それから」

声が詰まりそうになる。

でも、言わなければならない。

「途中で転んでしまって、それでも立ち上がって、最後までゴールへ向かった方へ」

会場が静まった。

その子が、びくりと肩を揺らす。

「最後まで走ってくれて、ありがとうございました」

彼女の顔が上がった。

目が大きく見開かれている。

「転んでも、立ち上がって、ゴールまで行くのは簡単なことではないと思います」

僕は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「今日の結果は、きっと悔しいと思います。つらいと思います。簡単に笑えるものではないと思います」

彼女の目に、涙が浮かぶ。

「でも、あの状況で、もう一度前を向いて走ったことを、僕は本当にすごいと思いました」

次の瞬間、彼女の目から涙がこぼれた。

ぼろぼろと。

止まらない。

「あっ」

僕は慌てた。

「すみません。泣かせるつもりではなくて」

彼女は首を横に振る。

でも涙は止まらない。

「ごめ、なさ……でも、うれし、でも、私、転んで、レース、めちゃくちゃに……でも、スピカさんが、最後までって、でも、あの、うれしくて、でも、申し訳なくて」

言葉がぐるぐるしていた。

僕もぐるぐるしてきた。

「えっと、泣いても大丈夫です。いや、大丈夫というのも変ですけど、でも、無理に止めなくても」

さらに泣かせた気がした。

どうしよう。

僕は焦る。

「本当に、責めているわけではなくて、最後まで走ったことがすごいと」

「スピカ様」

背後から、たづなさんの声がした。

穏やかだった。

けれど、逆らってはいけない響きがあった。

「はい」

「そろそろステージのお時間です」

「でも、この子が」

「ステージのお時間です」

「……はい」

救護スタッフと担当トレーナーが、そのウマ娘に寄り添う。

僕はもう一度、その子に頭を下げた。

「本当に、お疲れさまでした」

彼女は顔をぐしゃぐしゃにしたまま、何度も頷いた。

僕はステージ中央へ向かった。

胸の中には、さっきのレースの熱が残っている。

勝った子の走り。

届かなかった子の悔しさ。

転んでも立ち上がった子の背中。

その全部に向けて、今日の曲を歌いたかった。

マイクを握る。

会場が静まる。

ステージ袖を見ると、たづなさんが進行表を確認していた。

表情は落ち着いている。

ただし、やよい理事長は扇子の陰で妙に楽しそうだった。

僕は息を吸う。

「今日は、新しい曲を用意してきました」

会場が揺れた。

たづなさんの手が、ぴたりと止まった。

その表情が、ほんの少しだけ変わる。

え。

そんな声が聞こえた気がした。

理事長は、満面の笑みで扇子を広げている。

たづなさんが理事長を見た。

理事長は、目を逸らした。

すみません、たづなさん。

でも、これは言わせてほしい。

「この曲は、もう一度前へ進むための曲です」

僕は、出走ウマ娘たちを見た。

「勝った方にも、届かなかった方にも、転んでも最後まで走った方にも」

転倒した子が、涙で濡れた顔を上げる。

「今日の先に、まだ次があると信じたいすべての人へ」

ギターの音が鳴る準備が整う。

僕はマイクを握り直した。

「曲名は――NEXT FRONTIER」

ギターの音が、会場を切り裂いた。

メイクデビューとは、まるで違う曲だった。

明るく背中を押す始まりの歌ではない。

もっと熱く、もっと速く、息が苦しくなるほど前へ進む歌。

転んでも。

負けても。

届かなくても。

それでも、次の地平へ。

僕は歌った。

声に、今日のレースを乗せる。

勝った子の強さ。

追った子の悔しさ。

転んだ子の涙。

それでも、次へ。

ステージの前で、出走ウマ娘たちが顔を上げていく。

勝った子が拳を握る。

届かなかった子が唇を噛む。

転んだ子が、泣きながら、それでも前を見た。

観客席が沸く。

最初のサビに入った瞬間、フラワーカップの会場は爆発した。

手拍子が起きる。

歓声が重なる。

誰かが泣いている。

誰かが笑っている。

誰かが、明日走ろうと思っている。

曲が終わる頃には、僕の息はかなり上がっていた。

でも、胸は熱かった。

最後の音が消える。

一瞬の静寂。

そして、大きな拍手。

僕は深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

顔を上げると、ステージ袖のたづなさんと目が合った。

笑ってはいない。

怒ってもいない。

ただ、静かにこちらを見ている。

その片手は、いつの間にか胃のあたりに添えられていた。

やってしまったかもしれない。

でも、会場は大盛況だった。

やよい理事長は、隣で扇子を広げて満足げに頷いている。

「快挙ッ!」

たづなさんの胃は、たぶんその瞬間、静かに死んだ。

フラワーカップ後のレース後イベントは、大盛況のうちに幕を閉じた。

ただし。

後日、僕と理事長は並んでたづなさんに怒られることになる。