第23話 眠れない夜

その夜、スピカは眠れなかった。

別に、配信で炎上したわけではない。

菊花賞特番での発言は、想定以上に拡散されていた。

けれど、世間の反応は真っ二つというほどでもなかった。

「よく言った」

「メイクデビューを軽く扱わないでくれてありがとう」

「でも、男アイドル側も悪気はなかったのでは」

「あの場で言う必要あった?」

いろいろな意見があった。

それは、いい。

意見が割れるのは、いい。

むしろ割れなければおかしい。

自分だって、あの場で最善の言い方を選べたとは思っていない。

ただ。

不愉快だ、という感情だけは嘘ではなかった。

机の上には、書きかけのノートが開かれている。

そのページの見出しは、菊花賞。

その下に、何度も書き直された名前がある。

ミホノブルボン。

ライスシャワー。

そして、他の出走予定のウマ娘たち。

スピカはペンを指先で回しながら、椅子の背もたれに体を預けた。

天井を見る。

白い。

眠れない時の天井は、だいたい白い。

面白みがない。

「……寝ろよ、俺」

小さく呟く。

返事はない。

当たり前だ。

返事があったらそれはそれで困る。

机の端には、配信後に届いたメッセージのメモが置かれていた。

たづなさんからのもの。

理事長からのもの。

トレセン関係者からのもの。

そして、何人かのウマ娘からのもの。

大半は、心配だった。

無理しないでください。

ちゃんと寝てください。

言葉が強かったので、少し驚きました。

でも、嬉しかったです。

嬉しかったです。

その一文が、妙に胸に残っている。

メイクデビュー。

ウマ娘が初めて大きな舞台に立つ時の歌。

「みんなの曲」と言えば、その通りだ。

決して誰か一人の所有物ではない。

けれど、だからこそ、雑に扱っていいわけではない。

歌は、共有物であるほど扱いが難しい。

誰かの思い出で、誰かの憧れで、誰かの傷で、誰かの始まりだ。

そこへ土足で踏み込むようなことは、たぶん、してはいけない。

「……いや、靴は履いてるんだけど」

自分で言って、自分でどうでもいい補足をした。

眠れない脳は、ろくでもないところに引っかかる。

スピカはノートに視線を戻した。

菊花賞。

三冠。

ミホノブルボン。

逃げる。

機械のようだ、と言われる。

でも、違う。

彼女は機械ではない。

誰よりも積み重ねてきたから、揺れないように見えるだけだ。

誰よりも決められたことを守ってきたから、無駄がないように見えるだけだ。

そこに熱がないわけではない。

熱がなければ、あそこまで走れない。

スピカは、そのことを知っている。

知っている、という言い方は正しくないかもしれない。

自分は彼女のすべてを見てきたわけではない。

ただ、少なくとも画面越しに、資料越しに、記録越しに、彼女の走りを何度も見た。

そこにあったものを、冷たいとは思えなかった。

ペン先が紙を叩く。

ミホノブルボンを祝う言葉。

まだ書けない。

次に、ライスシャワーの名前を見る。

青い炎。

その言葉が、何度も頭の中で揺れる。

あの子は、届くかもしれない。

届いてしまうかもしれない。

その時、世界は彼女をどう呼ぶのだろう。

三冠を阻んだ子。

空気を読まなかった子。

祝福の流れを断ち切った子。

そういう言葉が、どこかから飛んでくるかもしれない。

スピカは眉間を押さえた。

「……最悪だな」

何が最悪なのか。

世間か。

歴史か。

自分の想像力か。

たぶん全部だ。

彼はノートの余白に、短く書いた。

ライスが勝った時、何を言うべきか。

しばらく、その文字を見つめる。

そして線を引いた。

違う。

そうじゃない。

新しく書く。

誰が勝っても、どう祝福するか。

それなら、少しだけ正しい気がした。

少なくとも、勝った子を最初から例外扱いするよりは。

スピカは息を吐いた。

部屋の時計を見る。

まだ深夜。

眠るには遅い。

起きるには早い。

つまり、いちばん中途半端でいちばん嫌な時間帯だった。

こういう時間に考え事をすると、だいたい良くない方向に行く。

それはわかっている。

わかっているのに、止まらない。

ノートの別ページを開く。

そこには、いくつかの曲名候補が書かれていた。

まだ誰にも見せていない。

見せるつもりもない。

少なくとも、今は。

ソロ曲。

その言葉は、メイクデビューやNEXT FRONTIERとはまったく別の重さを持つ。

みんなで歌える曲ではない。

誰か一人の生き方に、かなり近いところまで踏み込む曲だ。

だから、軽く出せない。

出していいタイミングがある。

出してはいけないタイミングもある。

たぶん。

いや、絶対にある。

「……ライスの曲とか、今出したら駄目だろ」

声に出して、すぐに口を閉じた。

駄目だ。

今のは駄目だ。

その子の物語を、こちらが勝手に先回りして奪ってしまう。

背負うものを増やしてしまう。

まだ走ってもいないレースの前に、勝手に意味を載せてしまう。

それは、応援ではない。

呪いに近い。

スピカはページを閉じた。

閉じたけれど、頭の中では曲が鳴っている。

未来で聴いたはずの曲。

ここではまだ存在していない曲。

存在していないはずなのに、彼の中にはある曲。

扱いに困る。

本当に困る。

「前世知識、便利そうに見えて全然便利じゃないんだよな……」

小さく笑った。

笑い声は、部屋の中で薄く消えた。

未来を知っている。

たぶん、それは大きな力だ。

けれど、未来を知っているからといって、今を雑に扱っていいわけではない。

むしろ逆だ。

知っているからこそ、慎重にならなければいけない。

知っているからこそ、知らないふりをしなければいけない時もある。

知っているからこそ、まだ言ってはいけないことがある。

その線引きが、難しい。

あまりにも難しい。

スピカはベッドに倒れ込んだ。

天井を見る。

やっぱり白い。

「……寝よう」

そう言って、目を閉じる。

三秒。

五秒。

十秒。

目を開ける。

無理だった。

彼は諦めて、スマートフォンを手に取った。

検索欄を開く。

何を検索するつもりだったのか、自分でもわからない。

気づけば、まったく関係のない言葉を打ち込んでいた。

クツシタヌゲタ。

その名前を見て、スピカはしばらく無言になった。

元競走馬の名前。

知っている。

知っているが、深夜に見ると破壊力がある。

「……もしこの子にソロ曲があったら、タイトルどうなるんだ」

やめろ。

今考えることではない。

だが、眠れない脳は止まらない。

片方だけのスタートライン。

いや、重すぎる。

裸足のフロンティア。

違う。靴下が脱げただけで靴は履いているかもしれない。

そもそもウマ娘にするな。

自分で自分にツッコミを入れながら、スピカは枕に顔を埋めた。

駄目だ。

本当に寝た方がいい。

こういう時に考えたことは、翌朝だいたい使い物にならない。

それでも、少しだけ思う。

どんな名前にも、走りがある。

どんな奇妙に見える名前にも、その子の物語がある。

笑っていい部分と、笑ってはいけない部分がある。

そこを間違えたくない。

自分は、たぶん、その線をよく間違えそうになる。

だからこそ、何度でも立ち止まらなければいけない。

スピカはようやくスマートフォンを置いた。

目を閉じる。

今度は、少しだけ眠れそうな気がした。

気がしただけだった。

結局、朝になっても彼の目の下には薄い影が残っていた。

翌日、トレセン学園の関係者通路で、何人かのウマ娘に心配されることになる。

「スピカさん、ちゃんと寝ました?」

「寝ました」

「嘘ですね」

「寝ようとはしました」

「それ寝たって言いません」

正論だった。

スピカは何も言い返せなかった。

ただ、ノートの中には一行だけ残っている。

ソロ曲は、今じゃない。

その下に、もう一行。

でも、いつか必要になるかもしれない。

そしてさらに、小さく。

その時は、本人に聞くこと。

それだけは、眠れない頭でも間違っていない気がした。

菊花賞は、近い。

その日、誰が勝つのか。

その時、自分は何を言うのか。

まだ、答えは出ていない。

ただひとつだけ、わかっていることがある。

誰かの勝利を、誰かの不幸としてだけ語るのは嫌だ。

それだけは、嫌だ。

スピカは眠気の残る頭で、もう一度ノートを閉じた。

良い歌を作りたい。

良い言葉を選びたい。

でも、それより先に。

ちゃんと、見届けたい。

今を走る彼女たちを。

未来の記憶ではなく。

目の前のレースとして。

そのためにも、まず寝るべきだった。

本当に。

本当に、それはそうだった。

けれど、たぶん。

たぶん、今夜も少しだけ眠れない。

その「たぶん」が、朝までずっと頭の中で響いていた。