第27話 静かな勝者・前編
菊花賞当日。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
けれど、灰色の雲が競馬場の上を広く覆っている。
晴れていれば、もっと違う気持ちで見られただろうか。
スピカは、そんなことを一瞬だけ考えて、すぐに首を振った。
天気の問題ではない。
胸の奥が重いのは、今日のレースが特別だからだ。
ミホノブルボン。
無敗二冠。
三冠へ王手。
その言葉だけで、競馬場全体が熱を帯びていた。
観客席のざわめきは、すでにひとつの波になっている。
誰もが歴史的瞬間を見たがっていた。
三冠が生まれる場面を、自分の目で見たい。
その願いは、決して悪いものではない。
スピカだって、ミホノブルボンの走りを見てきた。
彼女が積み上げたものを知っている。
その積み上げが三冠という形で報われる瞬間を、見たいと思う気持ちはわかる。
けれど。
ゲートへ入るのは、ミホノブルボンだけではない。
十六人。
十六人のウマ娘が、ここへ来た。
誰かの偉業の背景になるためではなく、自分の勝利を掴むために。
スピカは、関係者席からコースを見下ろした。
視線の先で、ウマ娘たちがそれぞれの準備をしている。
深く息を吸う子。
芝の感触を確かめる子。
軽く首を回す子。
じっと前だけを見る子。
その一人ひとりに、今日までの時間がある。
負けてもいいと思ってここに立っている子など、ひとりもいない。
「……全員、勝ちに来てる」
小さく呟いた声は、歓声に紛れて消えた。
ふと、スピカはVIP席の方を見た。
そこには、菊花賞特番で共演した男性アイドルたちの姿があった。
遠目では表情まではわからない。
それでも、現地へ来ているということは、レースに興味を持ってくれたのかもしれない。
そう思いたかった。
あの特番のあと、スピカは自分の言葉を何度も思い返した。
不愉快です。
帰ります。
あれが最善だったとは思っていない。
ただ、間違いだったとも思っていない。
今日、この場で、彼らが何かを見てくれるなら。
ウマ娘のレースを、消費するものではなく、向き合うものとして見てくれるなら。
それで少しは意味があったのかもしれない。
「まもなく、菊花賞の発走です」
アナウンスが響いた。
場内の熱が、さらに一段上がる。
ミホノブルボンがゲートへ向かう。
姿勢はいつも通りだった。
余計な動きはない。
迷いも見えない。
機械のようだ、と誰かは言うかもしれない。
けれど、スピカにはそうは見えなかった。
彼女は積み上げてきただけだ。
積み上げたものを、今ここで出すために、無駄を削っているだけだ。
その静けさの奥に、火がある。
ライスシャワーも、ゲートへ向かっていた。
大きな歓声は、主にブルボンへ向いている。
けれどライスは、そこに呑まれないように、静かに呼吸していた。
小さく見える。
弱く見える。
そう思う者もいるかもしれない。
でも、スピカは知っている。
小さな炎ほど、近づくまで熱に気づけないことがある。
青い炎。
彼女の中にあるものを、スピカはそう呼んでいた。
ゲートが閉まる。
一瞬、競馬場全体が息を止めた。
そして、発走。
ミホノブルボンは、迷わず前へ出た。
自分のリズムを作る。
誰かに合わせない。
自分が決めた速度で、長い距離を刻んでいく。
観客席が沸く。
「ブルボン!」
「そのまま!」
「三冠だ!」
声が降る。
スピカは、その声の下で、他のウマ娘たちを見ていた。
逃げるブルボン。
その後ろで位置を取り、機を待つ者たち。
外へ出すタイミングを探す者。
内でじっと脚を溜める者。
誰も背景ではなかった。
全員が、勝ち筋を探している。
ライスシャワーは焦っていなかった。
声援の中心にいない。
三冠の物語の中心にもいない。
それでも、彼女は走っている。
静かに。
怖いほど静かに。
長い距離の中で、レースは少しずつ形を変えていく。
ブルボンは逃げ続ける。
自分のリズムを崩さない。
後続は追う。
ただ、簡単には届かない。
三冠へ向かう背中は、あまりにも強かった。
終盤。
歓声が変わる。
期待の声から、祈るような声へ。
「行け」
「そのまま」
「三冠だ」
その言葉が競馬場を満たす。
スピカは拳を握っていた。
どちらに勝ってほしいのか。
そう聞かれたら、答えられない。
ミホノブルボンの三冠を見たい。
ライスシャワーの走りが届くところも見たい。
他の出走者たちの意地だって、見落としたくない。
だから、ただ見るしかなかった。
前世の記憶ではなく。
目の前のレースとして。
直線。
ミホノブルボンが粘る。
脚色は苦しくなっている。
それでも、前へ。
前へ。
前へ。
ライスシャワーが迫る。
静かだった炎が、そこで青く強く燃え上がる。
歓声が悲鳴に近くなる。
「ブルボン!」
「来てる!」
「ライスだ!」
二人が並ぶ。
どちらかわからない。
一瞬が、長く伸びる。
ゴール板を、二つの影がほとんど同時に駆け抜けた。
競馬場の音が、遅れて崩れた。
歓声。
叫び。
息を呑む音。
そして、写真判定。
場内が静まり返っていく。
あれほど熱を持っていた観客席が、急に冷えたように黙る。
スピカは、掲示板を見上げた。
長い。
数秒のはずなのに、ひどく長い。
隣で誰かが息を詰めている。
遠くで、誰かが祈るように手を組んでいる。
スピカも、瞬きを忘れていた。
やがて、結果が表示された。
勝者。
ライスシャワー。
ブルボン三冠ならず。
その瞬間、競馬場は爆発しなかった。
むしろ、逆だった。
静かになった。
あまりにも静かだった。
勝者がいる。
敗者がいる。
名勝負があった。
限界まで逃げたミホノブルボンがいて、最後まで追い続けたライスシャワーがいる。
十六人全員が、菊花賞を走り切った。
本当なら、拍手が起きるべきだった。
勝者の名が呼ばれるべきだった。
けれど、空気は固まっていた。
三冠が見られなかった。
その喪失感が、祝福より先に会場へ広がっていく。
スピカは、喉の奥が冷えるのを感じた。
まずい。
そう思った瞬間だった。
静まり返った観客席の中で、VIP席の方から声が響いた。
「あーあ、三冠達成見れると思ったのになぁ」
それは、叫びではなかった。
罵声でもなかった。
軽い感想のような声だった。
だからこそ、毒のように広がった。
スピカの体が、強張る。
空気が変わる。
ゆっくりと。
けれど、確実に。
勝者を祝うはずの静けさが、別のものへ変わり始めていた。