第28話 勝者の名を呼べ
男性アイドルの一言は、静まり返った会場に広がった。
三冠が見たかった。
歴史的瞬間が見たかった。
なぜ、阻んだのか。
誰かがはっきりとそう叫んだわけではない。
罵声が飛んだわけでもない。
けれど、空気は確かにそちらへ傾いた。
勝者を祝う前に、見られなかった三冠を惜しむ。
その順番の間違いが、ライスシャワーへ届いてしまう。
彼女は、ゴールの先で立ち尽くしていた。
勝った。
勝ったはずだった。
それなのに、会場は沸かない。
自分の名を呼ぶ声より先に、失われた三冠へのため息が広がっている。
ライスの耳が、かすかに伏せられた。
肩が落ちる。
勝ってはいけなかったのではないか。
みんなが見たかった夢を、自分が壊してしまったのではないか。
そんな言葉が、彼女自身の中から湧いてしまう。
誰かが押し付けたものではない。
けれど、会場の静けさが、その自責に形を与えてしまう。
ライスの目に、涙が滲んだ。
その前に、ミホノブルボンが立った。
三冠を逃した本人だった。
誰よりも悔しいはずのウマ娘だった。
それでも、彼女はライスシャワーの前に立った。
言葉はない。
何かを叫ぶわけでもない。
ただ、背中で遮る。
自分を破った勝者を貶めるな。
このレースを、三冠が見られなかっただけの日にするな。
その背中は、そう告げているようだった。
スピカは、気づいた時には走り出していた。
関係者席から、レース後ライブ用のステージまでは距離がある。
スタッフの声が背後で飛んだ。
誰かが止めようとしたかもしれない。
けれど、止まれなかった。
怒っていた。
頭に来ていた。
レースへの侮辱に。
勝者への沈黙に。
敗者の悔しさまで、雑な喪失感の材料にしようとする空気に。
けれど、今いちばん大事なのは怒ることではない。
怒りをぶつけて、自分がすっきりすることではない。
守ることだ。
ライスシャワーを。
ミホノブルボンを。
今日走った十六人全員を。
スピカはステージへ駆け上がった。
息が切れている。
それでも、マイクを掴む。
場内の視線が、遅れて彼へ集まっていく。
男性有名人の言葉が、会場の空気を傾けた。
なら、それを打ち消せるのも、同じく男性である自分の声かもしれない。
その構造は嫌いだった。
本当に嫌いだった。
けれど、今は使う。
歪みごと使ってでも、届かせる。
スピカは、マイクへ向かった。
最初の言葉は、決めていた。
誰よりも先に言うべき言葉。
誰もまだ、会場全体へ向けて言えていない言葉。
「ライスシャワーさん」
ライスが、かすかに顔を上げた。
ブルボンも、わずかにこちらを見る。
スピカは息を吸った。
「菊花賞、勝利おめでとうございます」
その一言が、場内に響いた。
しん、と静まった空気の中で、言葉だけがまっすぐ届く。
ライスの目が揺れた。
スピカは続ける。
「今日の菊花賞は、三冠が見られなかった残念な日ではありません」
観客席のざわめきが止まる。
「ミホノブルボンさんが最後まで逃げ続け、ライスシャワーさんが最後まで追い続けた、歴史に残る名勝負です」
言いながら、スピカはブルボンを見た。
「ミホノブルボンさん。最後まで、本当に強かったです。あの逃げは、誰にも軽く語れません」
ブルボンの表情は、大きく変わらなかった。
けれど、その肩がほんの少しだけ揺れたように見えた。
「そして、ライスシャワーさん。あなたはその背中を最後まで追い続けて、届いた。勝ったんです」
ライスが、また俯きかける。
スピカは、声を少しだけ強くした。
「勝ってしまったんじゃありません。勝ったんです」
その言葉に、観客席のどこかで、小さな拍手が起きた。
一つ。
二つ。
迷うように。
けれど、確かに。
スピカは、十六人の出走者たちへ視線を向ける。
「今日走った十六人全員が、この菊花賞を作りました。誰か一人の物語の背景じゃありません。全員が勝つために走っていました」
拍手が、少しずつ増えていく。
ためらっていた人たちが、ようやく自分の手を動かし始める。
祝福していいのだと、思い出したように。
いや。
本当は、最初からそうするべきだった。
スピカはそう思いながら、マイクを握り直した。
「だから、まず呼んでください」
声が、競馬場に広がる。
「勝者の名前を」
一拍。
そして、どこかから声が上がった。
「ライス!」
次に、別の場所から。
「ライスシャワー!」
拍手が広がる。
名を呼ぶ声が増える。
ライスシャワーは、泣きそうな顔でそれを聞いていた。
けれど、まだ完全には顔を上げられない。
スピカにはわかった。
祝福の言葉だけでは、足りない。
彼女の中に生まれてしまった自責は、拍手だけではほどけきらない。
自分は、昨日まで考えていた。
ソロ曲は、今じゃない。
特定のウマ娘の人生に近すぎる曲は、軽く出してはいけない。
本人の状態。
担当トレーナーの判断。
学園側の確認。
公開範囲。
事後ケア。
本来なら、必要なものがいくつもある。
それを飛ばすのは危険だ。
わかっている。
わかっているのに。
今、この歌が必要だった。
スピカは、マイクから少しだけ口を離した。
たづなが、ステージ脇にいた。
いつの間に追いついたのか。
彼女はスピカを見ていた。
責める顔ではなかった。
許可する顔でもなかった。
ただ、状況を見ている顔だった。
スピカは小さく頷いた。
後で怒られるかもしれない。
確認事項が山ほど増えるかもしれない。
それでも、今は。
彼は、もう一度マイクを握った。
「一曲、歌わせてください」
場内が揺れる。
それは、予定されていたウィニングライブの流れとは少し違う。
けれど、誰も止めなかった。
スピカは、ライスシャワーを見た。
「これは、ライスシャワーさんの勝利を祝う歌です」
ライスの目が、大きく開く。
スピカは、息を吸った。
そして歌った。
青い炎のような曲だった。
大きく燃え上がる炎ではない。
誰もが遠くから気づくような派手な光でもない。
小さくて。
静かで。
震えていて。
それでも、決して消えない火。
怖くても、前へ進む。
自分がそこにいていいのか不安でも、走る。
誰かの夢を壊したのではなく、自分の足で勝利へ届いたのだと告げる歌。
スピカは、ブルボンの敗北を踏み台にはしなかった。
ライスを上げるために、ブルボンを下げなかった。
あの逃げがあったから、この追走があった。
あの強さがあったから、この勝利があった。
その二つを、同じレースの中に置いた。
そして、十六人全員が走った菊花賞の中に置いた。
歌が進むにつれて、ライスの肩が震えた。
涙がこぼれる。
けれど、今度の涙は、さっきとは違っていた。
自分を責める涙ではない。
届いてしまったことに怯える涙でもない。
祝福を、受け取ろうとする涙だった。
ライスが、顔を上げた。
観客席から拍手が起きる。
今度は、迷いの少ない拍手だった。
スピカは最後の音を置くように歌い終えた。
息を吐く。
競馬場は、さっきとは違う静けさに包まれていた。
誰かを責める静けさではない。
名勝負のあとに残る、熱を含んだ静けさだった。
ライスシャワーは、泣きながらスピカを見ていた。
そして、マイクには入らないほど小さな声で言った。
「ありがとう、ございます……お兄様」
スピカは固まった。
聞こえたのは、おそらくスピカと、すぐ近くにいたたづなくらいだった。
たづなも一瞬だけ止まった。
本当に、一瞬だけ。
すぐに実務の顔へ戻る。
「後ほど、確認事項が増えました」
スピカは、マイクを持ったまま何も言えなかった。
ライスは、まだ泣いている。
けれど、顔は上がっていた。
なら、今はそれでいい。
たぶん。
いや。
少なくとも、今この瞬間だけは。
それで、よかった。