第31話 GIRLS' LEGEND U

有馬記念は、一年を締めくくるレースだ。

その年を走り抜けたウマ娘たちが集まる、年末の大舞台。

勝ち続けてきた者。

悔しさを抱えてきた者。

夢へ届いた者。

夢へ届かなかった者。

それぞれの一年を背負い、最後の大歓声の中へ飛び込んでいく。

競馬場は、朝から熱狂に包まれていた。

冷たい冬の空気。

白くなる息。

それでも観客席は熱を帯びている。

菊花賞のあと、世界は少しだけ変わった。

すべてが変わったわけではない。

勝者だけが大きく称えられ、届かなかった者が忘れられてしまう空気はまだある。

男性の言葉が、時に毒にも薬にもなってしまう歪みも消えていない。

けれど、あの日。

ライスシャワーの勝利に、祝福の拍手が戻った。

ミホノブルボンの敗北は、ただ三冠を逃した結果ではなく、歴史に残る名勝負として語られた。

十六人全員が、あの菊花賞を作ったのだと、多くのウマ娘たちが知った。

その記憶は、消えていない。

そして今日。

有馬記念が終わったあと、レース場にはもう一つの熱が待っていた。

スピカの年末ライブ。

今年一年を締めくくる、特別なレース後イベント。

これまで披露してきた曲を振り返るメドレー。

そして、スピカ本人がどうしても年末に歌いたいと言った、新曲。

トレセン学園と関係者が、入念に準備を重ねてきた。

会場導線。

警備。

救護。

出走ウマ娘たちのケア。

観客の誘導。

配信管理。

たづなさんの胃。

すべてを犠牲に、ではない。

すべてを整えて、今日を迎えた。

有馬記念は、熱狂のうちに終わった。

勝ったウマ娘へ、大きな拍手が送られる。

届かなかったウマ娘たちへも、少しずつ拍手が向かう。

それはまだ、完全な文化ではない。

全員が自然にそうできるわけではない。

けれど、以前より少しだけ、拍手の向きは広くなっていた。

スピカはステージ袖で、それを見ていた。

「……少しずつですね」

隣にいたたづなさんが言った。

「はい」

スピカは頷く。

「まだ、少しずつです。でも……すごく、嬉しいです」

たづなさんは何かを言いかけて、やめた。

その代わり、進行表へ視線を落とす。

「本日の曲目は、事前共有済みです」

「はい」

「メドレーの順番も確認済みです」

「はい」

「新曲についても、確認済みです」

「はい」

「曲名、演出、MC内容も確認済みです」

「はい」

「予定外の追加曲は」

スピカは、一瞬だけ目を逸らした。

たづなさんの視線が、ゆっくり鋭くなる。

「スピカ様」

「……一曲だけ」

「聞いていません」

「すみません」

「スピカ様」

「でも、今日歌いたいんです」

たづなさんは額に手を当てた。

その横から、秋川やよい理事長が扇子を広げる。

「年末ッ! 一年の締めくくりに新曲とは、実に華やかではないか!」

「理事長」

「……承知。実務確認は必要だ」

理事長はすぐに扇子を閉じた。

フラワーカップ以降、たづなさんの視線に対する反応速度が上がっている。

それは成長だった。

たぶん。

「曲の内容は」

たづなさんが聞く。

スピカは、まっすぐに答えた。

「ウマ娘の夢と青春と、これまで走ってきたすべてを歌う曲です」

その言葉に、たづなさんの手が止まった。

「……すべてを」

「はい」

危険ですね」

「はい」

「自覚があるのですね」

「あります」

スピカの声は静かだった。

けれど、そこには強い熱があった。

「でも、今日だから歌いたいです」

たづなさんは、しばらく黙った。

理事長も、珍しく何も言わなかった。

年末。

有馬記念。

一年を走り抜けたウマ娘たち。

勝者も、届かなかった者も、ここにいる。

そして、この一年で生まれた小さな変化も。

メイクデビュー。

NEXT FRONTIER。

DRAMATIC JOURNEY。

菊花賞の青い炎。

それらを経た今だからこそ、歌いたい曲。

たづなさんは、小さく息を吐いた。

「……一曲だけです」

「ありがとうございます」

「一曲だけです」

「はい」

スピカは深く頷いた。

その約束は、破られなかった。

ただし、その一曲の温度差だけは、誰の想像も超えていた。

本人に悪意はなかった。

ただ、スピカにとっては、どちらの曲も大切だったのだ。

ステージに上がる。

歓声が、波のように押し寄せた。

以前とは違う。

初配信直後の混乱とも違う。

中山での驚きとも違う。

フラワーカップでの熱とも違う。

菊花賞での祈りとも違う。

この歓声には、一年分の積み重ねがあった。

スピカはマイクを握る。

「有馬記念、本当にお疲れさまでした」

会場が沸く。

「今日走ったすべてのウマ娘の皆さんへ」

「そして、今年一年、走り続けたすべてのウマ娘の皆さんへ」

彼は深く頭を下げた。

「今年も、本当にお疲れさまでした」

拍手が起きた。

その拍手は、もう以前とは少し違う。

勝者だけに向けられるものではない。

一年を走ったすべてのウマ娘へ向けられた拍手だった。

メドレーが始まる。

最初は、メイクデビュー。

夢へ踏み出す歌。

まだ何者でもない子が、ゲートへ向かうための歌。

デビュー前のウマ娘たちが、客席で泣いていた。

何度も聞いたはずの曲なのに、年末のこの場所で聞くと、また違う意味を持って胸に届く。

次に、NEXT FRONTIER。

転んでも。

届かなくても。

それでも次へ進むための歌。

フラワーカップを見ていた者たちは、あの時、顔を上げたウマ娘のことを思い出した。

大差でゴールし、項垂れていた子。

スピカの言葉とこの曲で、少しだけ前を向いた子。

あの子は今、どこかでこの曲を聞いているだろうか。

次に、DRAMATIC JOURNEY。

未来への期待と、まだ見ぬ道へ向かう歌。

菊花賞を越えた今、その曲の響きは少し変わって聞こえた。

勝った子も。

届かなかった子も。

傷ついた子も。

また次の旅へ向かう。

メドレーは続く。

これまで披露してきた曲が、一年の記憶をなぞるように流れていく。

会場は何度も熱狂した。

何度も泣いた。

何度も笑った。

スピカの声は、年末の冷たい空気を震わせながら、競馬場の奥まで届いていく。

そして、メドレー最後の曲が終わった。

拍手。

歓声。

泣き声。

スピカはしばらく、何も言わずに立っていた。

余韻を壊さないように。

その時間を、会場全体が味わえるように。

やがて、彼はマイクを持ち直す。

そして、ちらりとステージ袖を見た。

たづなさんと目が合った。

たづなさんの表情が、少しだけ固まる。

まさか。

そんな顔だった。

スピカは、小さく頭を下げた。

すみません。

それから、会場へ向き直る。

「新曲、行きます」

競馬場が揺れた。

歓声が、というより、衝撃が走った。

たづなさんが、ステージ袖で額に手を当てる。

理事長は、扇子を握りしめたまま目を見開いた。

けれど、その次の曲名を聞いた瞬間、二人の表情は変わった。

「曲名は、GIRLS' LEGEND U」

その名を口にした時、スピカの声は少しだけ震えていた。

彼にとって、その曲は特別だった。

前世で、何度も聞いた。

何度も胸を焼かれた。

ウマ娘という存在の、夢と青春と、走り続ける人生のすべてが詰まっているような曲。

夢を夢のままで終わらせない熱が、彼の中にずっと残っていた。

イントロが鳴る。

競馬場の空気が変わった。

それは、ただ明るい曲ではなかった。

ただ熱い曲でもなかった。

これまで走ってきた時間。

これから走っていく未来。

勝利。

敗北。

出会い。

涙。

叫び。

歓声。

祈り。

それらすべてを抱えて、それでも前へ進む曲だった。

スピカは歌う。

彼の中にある敬意のすべてを込めて。

ウマ娘たちの青春へ。

彼女たちが走る理由へ。

夢を夢のまま終わらせないために。

曲の中には、どうしてもそのまま届けたい短い言葉があった。

キミと勝ちたい。

たったそれだけの一節が、今この世界で走るウマ娘たちの胸を焼くと、スピカは知っていた。

会場は静かだった。

熱狂しているのに、静かだった。

誰もが、言葉を失っていた。

ウマ娘たちは、自分のこれまでを思い出していた。

初めて走った日。

靴紐を結んだ日。

ゲートの中で震えた日。

負けて泣いた日。

勝って笑った日。

誰にも見られていないと思いながら、それでもゴールした日。

夢に届いた日。

夢に届かなかった日。

まだ捨てられない夢を、胸の奥で握り直した日。

全部が曲の中にあるようだった。

スピカの視界の端で、たづなさんが泣いていた。

隣で、やよい理事長も泣いていた。

二人はいつの間にか、抱き合うようにして肩を震わせていた。

普段なら理事長を止めるたづなさんも、今日だけは止められなかった。

理事長も、豪快な言葉を出せなかった。

ただ、泣いていた。

その涙を見て、スピカの胸が熱くなる。

やっぱり。

やっぱり、この曲は届く。

歌いながら、スピカは思う。

自分は、この曲をずっと大切にしてきた。

前世の記憶として。

好きだったものへの敬意として。

そして今、この世界のウマ娘たちへ届けるための歌として。

歌い終わった瞬間、競馬場は熱狂に包まれた。

拍手。

歓声。

泣き声。

叫び。

年末の空へ、すべてが昇っていく。

スピカは深く頭を下げた。

しばらく、そのままでいた。

余韻が必要だった。

この曲には、余韻が必要だった。

会場にも。

ウマ娘たちにも。

そして、彼自身にも。

やがて、ゆっくりと顔を上げる。

まだ泣いているウマ娘がいる。

抱き合っているウマ娘がいる。

座り込んでいるウマ娘がいる。

ステージ袖では、たづなさんが目元を押さえながら、それでも進行表を確認しようとしていた。

理事長はまだ泣いていた。

スピカは、もう一度マイクを持つ。

「……もう一曲、新曲があります」

時間が止まった。

たづなさんの手が止まった。

理事長の涙も止まった。

会場も止まった。

今、何と言った。

もう一曲。

新曲。

GIRLS' LEGEND Uの後に。

あの余韻の後に。

スピカは、真剣だった。

あまりにも真剣だった。

「聞いてください」

彼は言った。

「曲名は、うまぴょい伝説です」

会場が理解できなかった。

数秒の空白。

たづなさんが、口元を押さえた。

理事長が、涙目のまま固まった。

音響担当が、なぜか覚悟を決めた顔で再生ボタンを押した。

イントロが流れた。

その瞬間、世界が変わった。

さっきまでの壮大な感動は何だったのか。

夢と青春と人生のすべてを歌った直後に、脳へ直接飛び込んでくる電波。

理解より先に、体が反応する。

会場のウマ娘たちが、呆然とした。

次の瞬間、熱狂した。

情報量が多すぎる。

温度差が激しすぎる。

けれど、楽しい。

どうしようもなく楽しい。

スピカは全力だった。

真剣に。

全力で。

敬意を込めて歌って踊っていた。

だからこそ、会場はさらに混乱する。

ふざけているわけではない。

手を抜いているわけでもない。

これはこれで、全力のウマ娘へのリスペクトなのだ。

客席のウマ娘たちの中には、反射的に小さく腕を動かす者もいた。

歌う覚悟は、まだない。

ステージの中央に立つ未来も、まだ想像できない。

それでも、後ろの隅でなら。

ほんの少しだけ、一緒に踊ってみたい。

そう思ってしまった子がいたことを、スピカは知らない。

サビに入る。

振付が入る。

そして、問題のファンサが来た。

スピカは、原曲へのリスペクトとして、振付を変えなかった。

だから、その場面で。

投げキッスをした。

競馬場が爆発した。

比喩ではない。

少なくとも、その場にいたウマ娘たちの脳内では爆発した。

観客席のあちこちで、声にならない悲鳴が上がる。

耳が跳ねる。

尻尾が暴れる。

膝から崩れる者がいる。

抱き合って支え合う者がいる。

警備担当の一人が、プロ根性で持ちこたえながら小さく呟く。

「業務中……業務中……」

しかし、その尻尾は正直だった。

たづなさんが、ステージ袖で何かを言おうとして、言葉を失った。

理事長は扇子を落とした。

それでも、スピカは歌い続けた。

本人は知らない。

今、自分がどれほどの破壊力を放ったのか。

ただ、原曲への敬意として、振付を完全再現しようとしているだけだった。

曲は最後まで走り抜けた。

歌い終わった瞬間、会場は一度静まり返った。

そして。

大歓声が爆発した。

さっきの曲とは違う熱狂。

涙と混乱と笑いと情緒崩壊が混ざった、年末の大爆発。

スピカは息を切らしながら、深く頭を下げる。

「ありがとうございました」

会場から、言葉にならない声が返ってくる。

ステージ袖で、たづなさんがゆっくりと理事長を見た。

理事長も、ゆっくりとたづなさんを見た。

二人の顔には、同じことが書かれていた。

これは、後で反省会だ。

だが、その前に。

年末の競馬場は、伝説を二つ受け取った。

一つは、ウマ娘の夢と青春を歌う伝説。

もう一つは、ウマ娘の情緒を根こそぎ持っていく伝説。

どちらも、確かに伝説だった。

スピカは、それを知らない。

ただ、満足そうに笑っていた。

今年一年、走り続けたウマ娘たちへ。

届いたならいい。

そう思いながら。