幕間 公式LV4とスピカきゅんクッション未遂
── 通常のメンタルトレーニング最上級 ──
トレセン学園には、ちゃんとしたメンタルトレーニングが存在する。
これは重要な前提である。
最近、あまりにも一部のウマ娘によって「メンタルトレーニング」という概念が、音声兵器、VR兵器、静止画兵器、匂い兵器、謎の4DX装置、その他もろもろへと拡張されすぎていたため、学園内の認識がだいぶ歪みつつあった。
だが、もともとは違う。
ちゃんとしている。
学園が正式に用意している段階制メンタルトレーニング。
LV1、レース基礎学習。メンタルの前に、まずレースの流れ、仕掛け、位置取り、駆け引き、展開の読みを覚える。知らないものに怯えるのは当然なので、知識を得ることで不安を減らす。とてもまともである。
LV2、滝行。精神修行といえば滝。冷たい水に打たれ、雑念を払い、己を見つめる。急に古式ゆかしい方向へ進むが、まあ精神修行としては定番である。
LV3、座禅。呼吸を整え、姿勢を整え、心を整える。動きたい本能を持つウマ娘にとって、静かに座ることは意外と難しく、効果は大きい。これも定番である。
LV4、ホラー映画耐久。
……。
ちゃんとしている。公式である。公式なのだ。たとえ「え、本当に?」と思ってしまっても、これはトレセン学園が長年の経験から定めた正式なメンタルトレーニングなのである。
なお、LV4には注意事項がある。
新入生は原則閲覧禁止。精神的な準備が整っていない段階での視聴はかえって逆効果になるためだ。ただし、上級生が二人以上同席する場合に限り、同席可とする。
……要するに、上の子が二人いればセーフ、らしい。
どこかで「悪霊に連れていかれないための人数規定」という噂も立っていたが、公式はその解釈を否定していない。
そして今年。
進級し、二年生となった最強メンタル計画ちゃんと、その同室の親友にも、ついにLV4が解禁された。
その日の夜。
寮の一室。
机の上には、レンタルしてきた和風ホラー映画のパッケージが置かれていた。
黒い家。薄暗い廊下。障子の隙間から覗く、白い顔。
タイトルは――『呪われた家』。
「……」
「……」
「……」
三人のウマ娘が、無言でパッケージを見つめていた。
一人は、なんちゃって白衣を羽織った最強メンタル計画ちゃん。一人は、赤ペン先生こと同室の親友。そしてもう一人は、最近なにかと縁ができてしまった後輩である。
「……これ、ほんとに見るんですか?」
後輩が、小さな声で言った。耳がすでに半分寝ている。
「う、うん。公式メンタルトレーニングだから」
最強メンタル計画ちゃんは頷いた。声は震えていた。
彼女は、なんちゃって白衣を着るタイプのウマ娘である。実験、分析、改良、制作、検証。そういう言葉に心が躍るタイプである。つまり、どちらかというと理系である。そして理系は、わりとホラーに弱い。
もちろん個人差はある。だが少なくとも、この部屋にいるなんちゃって白衣のウマ娘は、パッケージ裏に書かれた「あの日から、家が少しずつ変わっていく」という一文だけで、もうかなり駄目だった。
「二人だと怖くて……三人なら、って」
「その発想、すごくわかるけど、三人でも怖いものは怖いよ?」
同室の親友が冷静に言った。だが彼女の尻尾も、さっきから落ち着きなく揺れている。後輩は膝の上でクッションを抱えていた。
「でも、先輩。メンタルを鍛えるためですもんね」
「そう。メンタルを鍛えるため」
最強メンタル計画ちゃんは、こくこく頷いた。
「スピカさんのファンサにも……耐えられるように……」
「そこに繋げないで」
赤ペン先生が即座に言った。
「これは普通のメンタルトレーニング。スピカさん関係ない。今回は関係ない」
「そ、そうだった」
危ないところだった。またメンタルトレーニングの概念が歪むところだった。
今回は、あくまで通常のトレセン公式メンタルトレーニングである。
最強メンタル計画ちゃんは深呼吸した。後輩も深呼吸した。同室の親友も深呼吸した。
部屋の電気を少し落とす。
「なんで暗くするの?」
「雰囲気が大事って書いてあったから」
「書いた人、悪霊側じゃない?」
そんなことを言いながら、再生ボタンが押された。
映画が始まった。
最初は、普通の家だった。古いが、どこにでもありそうな日本家屋。引っ越してきた家族。明るい食卓。庭に咲く花。障子から差し込む朝の光。
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ安心した。
「なんだ。最初は普通だね」
「うん」
「でも、こういうのって……」
後輩が言いかけた瞬間。
画面の奥。廊下の先。一瞬だけ、白い着物のようなものが横切った。
「ひっ」
三人の耳が同時にペタンとなった。
「今いたよね?」
「い、いた?」
「見間違いかもしれない」
「見間違いってことにしよう」
現実逃避で意見が一致した。
映画は進む。家の中で、少しずつ奇妙なことが起き始める。置いたはずのない人形。閉めたはずの襖。夜中に聞こえる足音。鏡の端に映る知らない影。日常が、少しずつ侵食されていく。
最強メンタル計画ちゃんは、クッションを抱きしめていた。後輩も、クッションを抱きしめていた。同室の親友は、まだ冷静そうに見えた。
見えただけだった。
テレビから、ぎしり、と床板の音が鳴った。
画面の中の少女が振り返る。誰もいない。ほっとする。
しかし、振り返った先の窓ガラスに、白い顔が映っていた。
ガシャンッ!
ガラスの割れる音が、部屋に響いた。
「きゃっ!」
最強メンタル計画ちゃんはびくっと跳ねた。そのまま、隣に座っていた同室の親友に抱きつく。
「こわいこわいこわいこわい!」
反応がない。
「……あれ?」
同室の親友は、座ったまま気絶していた。目を閉じて、クッションを抱えたまま、静かに落ちていた。
「えっ」
最強メンタル計画ちゃんは反対側を見る。
後輩も気絶していた。クッションを抱きしめ、耳をペタンと倒し、幸せそうではなく普通に怖そうな顔で落ちていた。
「えっ、えっ、えっ」
一人である。
いつもなら逆だった。いつもなら、自分が最初に気絶し、同室の親友が救助し、後輩が巻き込まれたり見守ったりする。
しかし今回は違った。自分だけ意識が残っている。
これはつまり。
「……わ、私のメンタル、強くなってる……?」
最強メンタル計画ちゃんは震えながら呟いた。
違う。たまたまである。たまたま落ちるタイミングが遅かっただけである。だが、本人にはわからない。
そして彼女は、自分なりに真面目だった。
これはメンタルトレーニング。ここで目を背けたら、何のためのLV4かわからない。同室の親友は気絶している。後輩も気絶している。救助要員がいない。いや、そもそもこれは危険物ではない。公式の教材である。
大丈夫。大丈夫なはず。
最強メンタル計画ちゃんは、ぷるぷる震えながらテレビを見た。
映画はクライマックスに入っていた。
家族は次々と異変に巻き込まれていく。主人公は、呪われた家から逃げようとする。廊下を走る。背後から何かが追ってくる。障子が次々と破れる。畳が軋む。電灯が点滅する。
テレビの中の主人公が叫ぶ。
最強メンタル計画ちゃんも、声にならない声を漏らす。
「がんばって……逃げて……!」
なぜか応援していた。
やがて主人公は玄関へたどり着く。扉に手をかける。開かない。背後から、ずる、ずる、と何かが近づいてくる。
開かない。開かない。開かない。
そして、最後の瞬間。
扉が開いた。主人公は外へ飛び出す。朝日。道路。遠くに人の声。
助かった。
「……よ、よかったぁ……」
最強メンタル計画ちゃんは、心の底から安堵した。映画は静かな余韻に入る。スタッフロールが流れ始める。
終わった。耐えた。私は耐えた。
最強メンタル計画ちゃんは、震える手でリモコンを持った。
「よし……消そう……」
その瞬間。
スタッフロールが終わった。
画面が暗転した。
「……え?」
暗い廊下が映った。無人の家。誰もいないはずの家。カメラが、ゆっくりと廊下を進んでいく。
「え、なに。なにこれ。終わったよね? 終わったよね?」
最強メンタル計画ちゃんの耳が完全に伏せた。
画面の奥に、鏡がある。鏡の中に、何かが映っている。白い顔。長い髪。黒い目。
それが、ゆっくりとこちらを向いた。
「ま、待って。待って。もう終わったから。スタッフさん帰ったから」
悪霊は待たなかった。
画面の奥から、ずるり、と近づいてくる。鏡の中から。画面の中から。こちらへ。
近づく。近づく。近づく。
画面いっぱいに、白い顔が――。
「――っ」
最強メンタル計画ちゃんは、静かに気絶した。リモコンを握ったまま。同室の親友にもたれかかるように。
三人仲良く、部屋の床で落ちた。
テレビだけが、無音のメニュー画面を映していた。
翌朝。
「……ん」
最初に目を覚ましたのは、同室の親友だった。体が痛い。なぜ床で寝ているのか。目の前に、映画のメニュー画面。隣に、気絶した後輩。反対側に、なんちゃって白衣の親友。
すべてを思い出す。
「あー……」
同室の親友は、顔を手で覆った。
「私、途中で落ちたんだ……」
救助役失格である。
後輩も目を覚ました。
「……先輩……終わりました……?」
「終わったみたい」
「私、途中から記憶がないです……」
「私も」
二人は気まずそうに視線を逸らした。
最後に、最強メンタル計画ちゃんが目を覚ました。
「……」
ぼんやり天井を見る。ゆっくり起き上がる。
そして、ぽつりと言った。
「……もっと鍛えないと」
同室の親友の表情が固まった。後輩の耳がぴくりと震えた。
「待って」
「え?」
「今の言葉、すごく嫌な予感がする」
「でも、公式LV4で最後まで耐えられなかったし……」
「私たちも耐えてないから」
「だから、三人で鍛えないと」
「三人で?」
同室の親友の声が低くなる。最強メンタル計画ちゃんは、真剣な顔で頷いた。
「段階的に……日常へ、少しずつ溶け込ませれば――」
「やめよう」
赤ペン先生の声だった。完全に赤ペン先生の声だった。
「公式メンタルトレーニングを改造しない」
「でも」
「しない」
「ちょっとだけ」
「しない」
「じゃあ企画書だけ」
「書かない」
後輩が震える声で言った。
「あの……先輩。もしかして次は、怖い音声とか、怖い映像とか、怖い匂いとか……」
「匂いでホラー……?」
最強メンタル計画ちゃんの目が、一瞬だけ輝いた。
「今、ひらめかないで」
同室の親友が即座に止めた。だが遅かった。最強メンタル計画ちゃんは、ほんの少しだけ考え込んでいた。
怖いものをただ怖がるのではなく、少しずつ慣れる。でも急にやると危ない。ならば日常の中に、ほんの少しだけ緊張感を混ぜて――。
「……」
「……」
「……」
三人の間に沈黙が落ちた。
同室の親友は、ゆっくりと立ち上がった。そして机の上にあるノートを手に取った。最強メンタル計画ちゃんの新品ノートである。
「これはしばらく預かります」
「あっ」
「預かります」
「まだ何も書いてないよ?」
「だから預かるの」
後輩が小さく拍手した。
メンタルトレーニングLV4。ホラー映画耐久。
結果:三人とも気絶。
ただし、最強メンタル計画ちゃんだけは、最後の最後まで意識を保った。
それは成長なのか。それとも、新たな危険物誕生の前兆なのか。
その答えはまだ誰にもわからない。
ただ一つ確かなことがある。
トレセン学園のメンタルトレーニングは、もともとちゃんとしていた。
ちゃんとしていたはずなのだ。
少なくとも、最強メンタル計画ちゃんが「ホラーを日常に溶け込ませる」という危険な単語を思いつくまでは。
掲示板:【公式LV4】あの映画、学園最恐教材だった件【最強メンタル計画ちゃん】
レス 1〜50
ここはトレセン学園公式メンタルトレーニングLV4
ホラー映画耐久について語るスレです。
公式教材のネタバレはほどほどに。
ただし悲鳴、気絶報告、耳ぺた報告は可。
LV4解禁された二年生、無事?
無事なわけないでしょ。
LV1:レース基礎学習
LV2:滝行
LV3:座禅
LV4:ホラー映画耐久
改めて見ても急に方向転換が激しい。
でもLV4、効くんだよなぁ……。
レース中の不測の事態に動揺しない訓練らしいよ。
大きな音、予想外の展開、視界外からの情報、緊張の持続。
理屈はわかる。
理屈はわかる。
でも怖いものは怖い。
わかる。
理屈で悪霊は消えない。
消えないどころか画面から近づいてくる。
やめて。
ところで昨日、例の最強メンタル計画ちゃんがLV4やったって聞いた。
あっ。
また何か作った?
今回は作ってない。
公式教材を借りて見ただけらしい。
よかった。
本当に?
「公式教材を借りて見ただけ」という文章にここまで不安を覚えることある?
あの子、普通の教材でも何かしら概念を拡張するからな。
でも今回は同室の子がノートを即回収したって聞いた。
早い。偉い。
赤ペン先生、判断が早い。
で、何見たの?
『呪われた家』らしい。
は?
え?
よりによって?
自分で選んだらしい。
あのパッケージを?
パッケージだけでLV4.5あるやつじゃん。
いや、あれは学園公式LV4教材の中でも最恐枠。
最恐枠というか、実質卒業試験。
あれを初回で持っていくの、最強メンタル計画ちゃんらしいといえばらしい。
理系ってなんで説明文読んで「なるほど」と思ったら突っ込むの?
理系への風評被害。
『呪われた家』は本当にやばい。
日常侵食系だから、見終わったあと部屋の襖とか鏡とか廊下とか全部怖くなる。
普通のホラー:見てる間怖い
呪われた家:見終わってから自室が怖い
精神ダメージが持続するタイプ。
しかもスタッフロール後に追撃がある。
言うな。
あれ初見殺しすぎる。
昔、先輩が「終わった終わったー」って言いながらテレビ消そうとして、そのまま気絶したって伝説がある。
今回もそれだったらしい。
今回の被害者
・最強メンタル計画ちゃん
・同室の親友
・巻き込まれた後輩
後輩かわいそう。
後輩、二人だと怖いから三人なら大丈夫理論で呼ばれたらしい。
三人なら怖さが三分の一になると思った?
実際は悲鳴が三倍になる。
なお途中で二人落ちた模様。
え、最強メンタル計画ちゃんが最初に落ちたんじゃないの?
今回は違う。
同室の子と後輩が先に落ちた。
珍しい。
いつもの逆パターンじゃん。
レス 51〜100
最強メンタル計画ちゃん、成長してる……?
危険物を作り続けた結果、変な耐性がついた説。
ASMR、VR、静止画、匂い、4DXを乗り越えてきた女だぞ。
乗り越えてはない。
毎回気絶してる。
気絶しても立ち上がる精神はある。
そこだけは本当に強い。
昨日の目撃情報。
朝、三人とも寝不足顔で食堂に来た。
最強メンタル計画ちゃんだけ「もっと鍛えないと……」って呟いてた。
出た。
いつもの。
その言葉が一番怖い。
『呪われた家』より怖い。
違う意味で心霊現象。
赤ペン先生「公式メンタルトレーニングを改造しない」
後輩「ひらめかないでください」
最強メンタル計画ちゃん「匂いでホラー……?」
最後。
最後やめろ。
そもそも『呪われた家』を初回に選ぶ時点で、あの子の安全基準がまだおかしい。
いや、たぶんこう。
「公式教材だから安全」
「最恐ってことは効果が高い」
「効果が高いなら初回にやる価値がある」
こう。
理屈は通ってる。
判断は壊れてる。
まさに最強メンタル計画ちゃん。
LV4教材の中でA〜SランクがあるとしたらS。
正式には段階分けされてないけど、みんな勝手にそう呼んでる。
Sランク教材
・呪われた家
・旧校舎の鈴
・鏡の向こうの足音
タイトルだけで耳が寝た。
旧校舎の鈴は音がやばい。
レース前の集中力強化には効くらしいけど、夜に鈴の音が聞こえた気がして寝られなくなる。
でも今回、最強メンタル計画ちゃんが最後まで一人で見ようとしたの、ちょっと偉いと思う。
わかる。
怖いのに逃げなかったんだよね。
その根性は本当にすごい。
方向性は毎回おかしいけど、根性はある。
だから周りも完全には止めきれないんだよな。
悪意がないし、本人は本気で頑張ってる。
そこが一番厄介。
今回のまとめ。
・最強メンタル計画ちゃん、公式LV4に挑戦
・選んだ映画が学園最恐クラスの『呪われた家』
・同室の子と後輩が途中で気絶
・最強メンタル計画ちゃんは最後の追撃まで耐えたが、スタッフロール後で気絶
・翌朝「もっと鍛えないと」
・赤ペン先生がノート回収
完璧な流れ。
完璧に不穏。
でも、たぶん少しずつ本当に強くなってるんだよな。
うん。
最近レースでも落ち着いてるし。
なおファンサでは落ちる。
そこは別腹。
ホラー耐性とスピカ耐性は別ステータス。
スピカ耐性だけ上限が低すぎる。
いや全員低い。
最強メンタル計画ちゃん、次は普通のAランク教材にしてね。
いや、Bからでいい。
Cからでいい。
LV1に戻ろう。
理事長には触らせるな。
重要。
理事長が『呪われた家』見たらどうなる?
強がって見る。
途中で尻尾が膨らむ。
スタッフロール後に落ちる。
たづなさんが発見する。
いつもの。
今回、危険物は生まれてない。
いいね?
レス 101〜150
はい。
今のところは。
不穏な補足をするな。
最強メンタル計画ちゃんの新品ノートが無事回収されたことを信じろ。
ノートがなくても、心にノートがある。
名言っぽく最悪なこと言うな。
メンタルトレーニングの概念は、今日も少しずつ侵食されている。
── 夜中の同行 ──
その夜の話をすると、だいたい深夜二時ごろのことだった。
最強メンタル計画ちゃんは目を覚ました。
ぼんやりした意識の中、体が必要なものを要求していた。
トイレに行かなければならない。
……廊下に、出なければならない。
彼女はしばらく布団の中で動かなかった。目を開けて、天井を見て、現在の状況を整理した。
映画は終わった。テレビは消えている。部屋の電気はついている。ここは寮の部屋だ。悪霊はいない。
わかってはいる。
でも、廊下に一人で出るのが怖かった。
最強メンタル計画ちゃんは、そっと隣の布団を揺らした。
「……」
「……」
「……ねえ」
同室の親友が、うっすら目を開けた。
「……なに」
「……ちょっとだけ付き合って」
「どこへ」
「……廊下」
同室の親友は一瞬だけ間を置いた。
「トイレ?」
「……うん」
沈黙。
「……しょうがないなあ」
同室の親友は、眠そうな目のまま起き上がった。文句は言わなかった。スリッパを履いた。
二人で、こそこそと廊下へ出た。
夜の廊下はしんとしていた。電灯が等間隔に並んでいる。誰もいない。普通の廊下だった。
最強メンタル計画ちゃんは、同室の親友の袖を少しだけ掴んで歩いた。
「……怖い?」
「……うん」
お互い様だった。
廊下の曲がり角の手前で、二人は自然に手を繋いだ。どちらが先に握ったのか、よくわからなかった。
鏡の前を通るとき、二人とも視線を逸らした。
トイレを済ませて、廊下を引き返す。来た道は、さっきより少しだけ短く感じた。
部屋に戻って、布団に入った。
「ありがとう」
「……お互い様」
同室の親友は布団を引き直しながら、小さくあくびをした。
「来年、後輩ちゃんの番になったら、二人で付き合ってあげよう」
「……うん」
最強メンタル計画ちゃんは、こくりと頷いた。
そして二人は、また眠った。
廊下にも、鏡にも、悪霊はいなかった。
ただ、静かな夜だった。
── 没になったホラー耐性改良案 ──
あれからしばらく、最強メンタル計画ちゃんは一人でトイレに行けなかった。
夜。廊下。曲がり角。少し開いたドア。鏡。
全部だめだった。
「……あれは、しばらくいい」
布団の中で、最強メンタル計画ちゃんは小さく呟いた。
公式メンタルトレーニングLV4。ホラー映画耐久。あれは確かに効果があった。効果がありすぎた。精神を鍛えるどころか、廊下の暗がりを見るだけで耳がぺたんとなるようになってしまった。
つまり、失敗。
いや、失敗ではない。改善の余地がある。
「……改善?」
布団の中で、最強メンタル計画ちゃんの耳がぴくりと動いた。
怖い。でも、完全に無理ではなかった。途中までは耐えた。問題は、恐怖を受け止めるための支えが足りなかったこと。クッションを抱いていた。でも、普通のクッションでは足りなかった。
もし。もしも。
「……スピカさんクッションを抱きしめていたら……耐えられるのでは?」
がばっ。
最強メンタル計画ちゃんは布団から起き上がった。怖さで寝られなかったはずなのに、急に目が覚めた。
机へ向かう。ノートを開く。ペンを握る。そして、勢いよく書き始めた。
ホラー耐性改良計画
目的:公式LV4ホラー映画耐久における恐怖反応の軽減
仮説:安心感を与える対象を抱きしめることで、恐怖刺激への耐性が向上する
使用予定物:スピカさんクッション
期待効果:
・耳ぺた軽減
・悲鳴軽減
・気絶時間短縮
・悪霊接近時の精神安定
・スピカさんに守られている感覚による――
すっ。
横から赤ペンが入った。
「はいはい、そこまでねー」
「えっ」
最強メンタル計画ちゃんが振り向くと、同室の親友が立っていた。寝間着姿。眠そうな目。手には赤ペン。完全に赤ペン先生である。
「まだ仮説段階だよ?」
「仮説段階で止めるのが一番安全なの」
「でも、今回は危険物じゃなくてクッションだよ?」
「スピカさんクッションの時点で危険物寄り」
「抱きしめるだけだよ?」
「その『だけ』で何回事故を起こしたか思い出して」
最強メンタル計画ちゃんは黙った。
ASMR。VR。静止画。匂い。4DX。いろいろあった。
「でも、ホラー耐性を上げるためには……」
「まず夜一人でトイレに行けるようになってから」
「うっ」
正論だった。
赤ペン先生はノートのページ上部に、きゅっきゅっと大きく書き込んだ。
未遂。実施禁止。
理由:ホラー耐性訓練ではなくスピカ耐性訓練になるため。
「……スピカ耐性訓練なら、ありでは?」
「なし」
即答だった。
その夜、ホラー耐性改良計画は開始前に没となった。
後日、掲示板ではこう語られる。
赤ペン先生の介入により、トレセン学園はまた一つ危険物の誕生を免れた、と。
掲示板:【朗報】スピカきゅんクッション未遂で終わる【でもほしい】
レス 1〜50
朗報です。
例のホラー耐性改良案、未遂で終わりました。
よかった。
本当によかった。
また何を作ろうとしてたの?
スピカきゅんクッション。
ほしい。
ほしい。
ほしい。
未遂でよかったと言った直後にこれである。
発端を説明すると、最強メンタル計画ちゃんが『呪われた家』見てから夜のトイレに一人で行けなくなったらしい。
かわいい。
いや怖いよ、あれは。
わかる。
見た後、廊下が全部敵になる。
鏡がだめになる。
半開きの扉がだめになる。
そして閃いた。
あっ。
駄目な音がした。
「もしやスピカさんクッションを抱きしめていたら耐えられるのでは?」
天才。
天才ではない。
でも理屈はわかる。
わかるのがまずい。
スピカきゅんクッション、普通に商品化してほしい。
最強メンタル計画ちゃんが作る時点で、どこかに機能追加される。
「安心効果を高めるためにスピカさんの声を内蔵しました」
アウト。
「さらに香りを再現しました」
アウト。
「抱きしめると鼓動音が」
完全アウト。
もうV6の派生兵器じゃん。
だから未遂でよかった。
赤ペン先生が横から入ったらしい。
有能。
ノートに書き始めた瞬間、横から赤ペンで「はいはいそこまでねー」って。
早い。
完璧な初動。
赤ペン先生、危険物対策班としての練度が上がってる。
なお本人は「今回はただのクッションだよ?」と主張した模様。
信用がない。
ただの音声です
ただのVRです
ただの静止画です
ただの匂いです
ただの4DXです
ただの、とは。
最強メンタル計画ちゃんの「ただの」は信用してはいけない。
赤ペン先生の判断では、これはホラー耐性訓練ではなくスピカ耐性訓練になるらしい。
正しい。
完全に正しい。
スピカ耐性訓練のほうが必要では?
それはそう。
でも訓練方法がない。
レス 51〜100
見ると落ちる。
聞くと落ちる。
近いと落ちる。
匂いで落ちる。
抱きしめてもたぶん落ちる。
詰み。
たづなさんもほしがりそう。
でも仕事中だから我慢する。
偉い。
我慢しすぎて、誰もいないところでため息つきそう。
やめろ。
たづなさんまで想像させるな。
赤ペン先生のコメント
「未遂。実施禁止。理由:ホラー耐性訓練ではなくスピカ耐性訓練になるため」
名裁定。
赤ペン先生、公式審査員になって。
後輩ちゃんにも共有して警戒網を広げよう。
理事長には?
絶対知らせるな。
理事長が知ったら「業務上の確認として試作を」とか言い出す。
たづなさんの胃を守れ。
次スレタイトル案
【未遂】スピカきゅんクッション、世界を救われる【でもほしい】
世界を救われる、とは。
作られなかったことで救われた。
でもほしい。
まだ言う。
スピカきゅんクッション、ほしい。
わかる。
わかる。
わかるけど、未遂で終わって本当によかった。