旅行とリフレッシュ

── 研究禁止令・発令 ──

先輩、楽しみですね!

弾むような声が、駅前のざわめきの中で跳ねた。

五月。ゴールデンウィーク。

空はよく晴れていて、風は少しだけあたたかくて、改札の向こうには旅行鞄を持った人たちがたくさん行き交っている。

その中で、後輩は目をきらきらさせながら、両手で小さな旅行バッグを握りしめていた。

「ん。楽しみ」

最強メンタル計画ちゃんは、ふわりと顔を緩めて答えた。

隣では、同室の親友――もとい赤ペン先生が、少しだけ呆れたように、けれど柔らかく笑っている。

「うん。楽しみなのはいいけど、今日は本当に普通の旅行だからね」

「ん」

「研究しない」

「うん」

「実験しない」

「うん」

「現地の名産品を見て『これを応用すれば新しいトレーニング器具が……』って言わない」

「……うん」

「今、ちょっと間があった」

「……気のせい」

後輩がくすくす笑った。

なんだかんだで、この三人は仲良くなっていた。

最初は、先輩と後輩。

次に、問題児と目撃者。

それから、危険物製作者と止める人。

そして今は、旅行に来るくらいには、気安い関係になっていた。

トレーニング。授業。研究。企画書。赤ペン。封印。報告書。たづなさんの胃。理事長の好奇心。

そんな日々は、どう考えても普通のウマ娘の青春とは少しずれている。

いや、かなりずれている。

だが、それでも充実していた。

毎日は忙しい。やりたいことはたくさんある。思いつくこともたくさんある。

走りたい。強くなりたい。誰かの役に立ちたい。

そして、できれば。ほんの少しだけでも。自分の作ったものが、誰かを笑顔にできたらいい。

そんなことを考えながら過ごす日々は、とても楽しかった。

けれど、疲労はたまる。いくらウマ娘でも、体と心には限界がある。

同室の親友はそれを見抜いていた。後輩も、それに気づいていた。

だから今日は、三人で旅行に来た。

目的地は、山あいの温泉街。古い旅館。足湯。甘味処。地元野菜の料理。少し歩けば、緑の多い遊歩道もあるらしい。

最強メンタル計画ちゃんは、駅の観光案内板を眺めながら、ふにゃりと口元を緩めた。

「たまには……いい」

「たまには、じゃなくて、もっと頻繁に休んでいいんだよ」

同室の親友が即座に言った。

「でも……成長は、止まらない」

「その発想がもう休めてない」

「あと、温泉の成分と精神安定……組み合わせたら――」

「はい旅行初日、研究禁止一回目」

「……あっ」

後輩が横から楽しそうに手を挙げる。

「先輩、今のはアウトです!」

「……後輩ちゃんまで」

「今日は赤ペン先生側です!」

「そんな……」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけしゅんとした。

同室の親友はため息をついたが、その表情は穏やかだった。

彼女は知っている。この子は、本当に危ないことを考えている時ほど目が輝く。

でも今日の輝きは、少し違う。

旅行が楽しみで。親友と後輩が一緒で。知らない場所へ行くことに、純粋に胸を弾ませている顔だった。

「ほら、電車来るよ」

「ん」

三人はホームへ向かった。


── 車窓と温泉まんじゅう ──

電車に乗り込み、窓際の席に並ぶ。

車窓の向こうで、街並みがゆっくり流れ始めた。

ビルが減って、住宅が減って、やがて田畑と山の緑が増えていく。

後輩は窓に顔を近づけて、外の景色を見ていた。

「わあ……すごいです。緑がいっぱいです」

「後輩ちゃん、こういうところ初めて?」

「はい。家族旅行もあまりしたことがなくて。だから、すごく楽しみにしてました」

そう言って、後輩は少し照れたように笑った。

その笑顔を見て、最強メンタル計画ちゃんの胸がぽかぽかした。

この後輩は、自分に救われたと言ってくれた子だ。

それは今でも少し照れくさい。自分はそんな大層なことをしたつもりはない。ただ、自分なりに頑張って、間違えて、転んで、赤ペンを入れられて、また頑張っただけだ。

でも、そのどこかで誰かが前を向けたのなら。

それは、とても嬉しい。

「後輩ちゃん」

「はい?」

「……今日、いっぱい楽しもう」

「はい!」

後輩が満面の笑みで頷いた。同室の親友も、二人を見て小さく笑った。

「うん。楽しもう。普通に」

「……普通に」

「普通にです!」

三人は声を揃えた。

しばらくすると、車内販売のワゴンが通りかかった。

温泉まんじゅう。

その文字を見た瞬間、最強メンタル計画ちゃんの耳がぴくっと動いた。

「温泉まんじゅう……」

「買う?」

「……買う」

即答だった。

三人で一箱買い、さっそく開ける。ふわりと甘い香りが広がった。

「おいしい……!」

最強メンタル計画ちゃんは一口食べて、静かに目を細めた。後輩も両手でまんじゅうを持って、ちまちまと食べている。

「甘くて、やさしい味です」

「うん。おいしいね」

平和だった。あまりにも平和だった。

だからこそ、同室の親友は油断しなかった。

最強メンタル計画ちゃんが、まんじゅうの断面をじっと見つめていることに気づいたからである。

「……何考えてるの?」

「えっ」

「今、絶対に何か考えてたよね」

「……あんこ」

「あんこ?」

「保湿性と……糖分補給。携帯食として――」

「旅行初日、研究禁止二回目」

「あっ」

「先輩、アウトです!」

車内に、三人の小さな笑い声が混じった。


── 温泉街到着・普通の青春 ──

やがて電車は山あいの駅に到着した。

ホームに降りると、空気が少し違った。街よりも澄んでいて、草木の匂いがする。

駅前には小さな土産物屋があり、木造の観光案内所があり、遠くには湯けむりが見えた。

「わあ……!」

後輩が感嘆の声を上げる。最強メンタル計画ちゃんも、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

「……体が、軽い」

「それはよかった」

同室の親友が微笑む。

「今日はいっぱい歩いて、温泉入って、おいしいもの食べて、ちゃんと寝る。いい?」

「ん」

「企画書は?」

「書かない」

「ノートは?」

「持ってきてない」

同室の親友は目を細めた。

「本当に?」

「……小さいメモ帳は」

「出して」

「……うん」

最強メンタル計画ちゃんは、旅行バッグの内ポケットから小さなメモ帳を取り出した。後輩が目を丸くする。

「先輩、持ってきてたんですか?」

「お守り……」

危険物の種じゃなくて?」

「……お守り」

同室の親友はメモ帳を受け取ると、自分のバッグにしまった。

「旅行中は預かります」

「そんな……」

「必要なことがあったら私に言って。私が書く」

「……検閲」

「そうだよ」

「……否定しない」

後輩は笑いすぎて、少し涙目になっていた。その様子を見て、最強メンタル計画ちゃんもつられて笑った。

ああ。楽しい。

それは、心の底から自然に浮かんだ感情だった。

何かを作らなくても。誰かを助けようとしなくても。強くなろうと必死にならなくても。

こうして、大好きな親友と、なんだかんだで仲の良い後輩と、知らない場所を歩くだけで。

こんなに楽しい。

温泉街へ向かう道を、三人で歩く。

石畳の道。古い木造の店。湯気の立つ饅頭屋。足湯に浸かっている観光客。小さな川のせせらぎ。道の脇には、春の名残の花が揺れていた。

「先輩、あそこ見てください! 足湯です!」

「……入りたい」

「旅館に荷物置いてからね」

「ん」

後輩が前を歩き、最強メンタル計画ちゃんがそれを追い、同室の親友が二人を見守る。

まるで、普通の旅行だった。普通の休日だった。普通の青春だった。

そのことが、同室の親友には少し嬉しかった。

いつも何かを作っている子。いつも何かを思いついてしまう子。いつも危なっかしくて、でも放っておけなくて、でも眩しいくらいまっすぐな子。

その子が今日は、ただ楽しそうに歩いている。

それだけで、来てよかったと思えた。

「先輩!」

後輩が振り返る。

「写真撮りましょう!」

「……撮ろ」

三人は温泉街の入口にある大きな看板の前に並んだ。通りすがりの観光客に頼んで、写真を撮ってもらう。

後輩は満面の笑み。最強メンタル計画ちゃんは少し緊張しながらも嬉しそう。同室の親友は、二人に挟まれて穏やかに笑っている。

シャッター音が鳴った。

「わあ、いい写真です!」

「……ん。いい」

「うん。いいね」

最強メンタル計画ちゃんは、画面をじっと見つめた。

自分が笑っている。親友が笑っている。後輩が笑っている。

なんだか、それだけで胸がいっぱいになった。

「……現像、したい」

「いいね。部屋に飾る?」

「ん」

同室の親友が何気なく言ったその一言に、最強メンタル計画ちゃんの耳がぴんと立った。

「部屋に飾る……」

「待って」

「日常に、溶け込む……」

「待って」

「見るたびに……楽しい……」

「それ以上言わない」

「……写真……部屋に……安心する……」

「旅行初日、研究禁止三回目」

「あっ」

「先輩、アウトです!」

「でもこれは健全でしょ」

「健全だけど今日はアウト」

「……そんな」

温泉街に、三人の笑い声が響いた。

きっと楽しい旅行になる。最強メンタル計画ちゃんは、そう確信していた。

この時点では。まだ。

この旅先に、地元名産の香草園があることも。旅館の売店に、手作りアロマ体験コーナーがあることも。夕食のデザートに、花の香りを閉じ込めたゼリーが出ることも。

そして後輩が、純粋な善意でこう言ってしまうことも。

「先輩、こういう香りって、リラックス効果があるんですよね?」

――この時点では、誰も知らなかったのである。


── 温泉と牛乳と身長差 ──

温泉は、とてもよかった。

熱すぎず、ぬるすぎず。

肩まで浸かると、じんわりと体の芯まで温まっていくようで、普段のトレーニングで張っていた脚も、研究で固まりがちな肩も、ふわりとほどけていく。

露天風呂から見える山の緑。湯けむり。木の香り。遠くで聞こえる川の音。

最強メンタル計画ちゃんは、湯船の中でほうっと息を吐いた。

「……すごい」

危なかった。もう少しで、

「温泉成分……疲労回復……入浴剤に――」

と考えかけた。

だが、今日は旅行である。研究禁止である。同室の親友にメモ帳を没収されている以上、証拠も残せない。

最強メンタル計画ちゃんは、己の中の研究心をそっと湯船に沈めた。

ぷくぷくぷく。

沈めたはずだった。たぶん。


風呂から上がり、脱衣所で浴衣に着替える。

旅館の浴衣は、普段の制服や勝負服とは違って、なんだか少し落ち着かなかった。帯を結ぶのに少し手間取りながら、どうにか形を整える。

「……よし」

悪くない。たぶん、悪くない。

そう思いながら、脱衣所を出た。

すると。

休憩スペースには、すでに二人がいた。同室の親友と、後輩ちゃん。二人とも浴衣姿で、長椅子に並んで座り、瓶のコーヒー牛乳を飲んでいる。

ごくごく。ぷはー。

なんだか絵になっていた。

「先輩、こっちです!」

「おかえり。ちゃんと温まった?」

「うん」

最強メンタル計画ちゃんは、ふわりと笑って答えた。

そして、二人の前に立つ。立った。立ってしまった。

じー。

二人を見る。まず、同室の親友。落ち着いた浴衣姿。姿勢がいい。いつもの赤ペン先生感は少し薄れているが、やはりしっかり者の空気がある。

そして、後輩ちゃん。

後輩。後輩のはずである。自分より後輩。学年的にも後輩。つまり、自分の方が先輩。

先輩なのに。

じー。

視線が上にいく。後輩ちゃんの頭。自分の頭。もう一度、後輩ちゃんの頭。自分の頭。

……高い。

後輩ちゃん、背が高い。

いや、すごく高いわけではない。普通か、少し高めくらいかもしれない。でも、自分と並ぶと、明らかに高い。

頭半分くらい違う。

頭半分。頭半分である。

これはもう、ただの誤差ではない。先輩としての威厳に関わる。

いや、威厳は身長では決まらない。決まらないはずだ。

「……ぐぬぬ」

「先輩?」

後輩ちゃんが首を傾げた。

「どうしました?」

「……なんでもない」

「本当?」

同室の親友が目を細める。

「今、明らかに何か気にしてたよね」

「気にしてない」

「視線が後輩ちゃんの頭と自分の頭を往復してたけど」

「気にしてない」

「ぐぬぬって言ったよ」

「……心の声」

「声に出てた」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ頬を膨らませた。

後輩ちゃんは、ようやく何かに気づいたように「あっ」と口元を押さえる。

「もしかして、身長……」

「ちがう」

即答だった。

「でも先輩、今ちょっと私の頭のあたりを……」

「見てない」

「見てました」

「見てない」

「かわいい……」

「かわいくない」

後輩ちゃんがにこにこした。そのにこにこが、なんだか少しだけ悔しい。

先輩なのに。自分が先輩なのに。後輩ちゃんに微笑まれている。この構図はよくない。非常によくない。

最強メンタル計画ちゃんは無言で休憩スペースの自販機へ向かった。

瓶牛乳の自販機。コーヒー牛乳。フルーツ牛乳。普通の牛乳。

その中で、最強メンタル計画ちゃんは迷わず普通の牛乳を選んだ。

がこん。瓶を取り出す。ふたを開ける。ぐいっと飲む。

ごく。ごく。ごく。

「……ぷは」

冷たい牛乳が、温まった体にしみわたる。

おいしい。とてもおいしい。

アスリートにカルシウムは大切である。骨。筋肉。身体作り。成長。

いや、成長という言葉には他意はない。

別に背を伸ばしたいわけではない。アスリートだから飲んでいるだけである。温泉上がりに牛乳を飲むのは定番だからである。コーヒー牛乳ではなく普通の牛乳を選んだのも、栄養的観点からである。

別に。背を伸ばしたいわけではない。べつに。

「先輩、牛乳好きなんですか?」

「……アスリートだから」

「アスリートだから」

後輩ちゃんが復唱した。

「カルシウム。大事」

「カルシウム」

「骨の健康……大事」

「骨の健康」

「あと、成長期の栄養は――」

そこまで言って、最強メンタル計画ちゃんは固まった。

同室の親友が、すっと目を細める。

「成長期?」

「……一般論」

「へえ」

「一般論」

「背、伸ばしたいんだ?」

「ちがう」

声が少し大きくなった。休憩スペースにいたおばあさんが、微笑ましそうにこちらを見る。最強メンタル計画ちゃんは、慌てて声を落とした。

「ちがう……」

「じゃあ、なんで普通の牛乳?」

「アスリートだから」

「コーヒー牛乳でもカルシウムはあるよ」

「糖分が」

「温泉まんじゅう食べてたよね」

「……あれは、旅行だし」

「ぐぬぬ……」

また出た。

後輩ちゃんが、にこにこを通り越して、少し頬を緩ませすぎている。同室の親友は、明らかに笑いをこらえている。

「先輩」

「……なに?」

「私は、先輩が小さくても尊敬してますよ」

「小さくても!?」

「あっ」

「後輩ちゃん!」

「違います! そういう意味じゃなくて!」

「今、小さくてもって!」

「えっと、かわいくても尊敬してます!」

「かわいくても!?」

「悪化してる」

同室の親友がぼそっと言った。後輩ちゃんは慌てて両手をぶんぶん振った。

「違うんです! 先輩はすごいです! ちょっと背が低くても、すごく努力家で、行動力があって、いろんなものを作れて、私にとっては本当にすごい先輩で!」

「ちょっと背が低くても!」

「ああああ!」

後輩ちゃんが自分で頭を抱えた。

最強メンタル計画ちゃんは、ぷくっと頬を膨らませたまま牛乳を飲む。ごくごく。さらに飲む。ごくごく。瓶が空になった。

無言で二本目を買おうとする。

「待って」

同室の親友が手を掴んだ。

「飲みすぎ」

「でも」

「一気に飲んでも背は伸びないよ」

「背の話はしてない」

「じゃあ二本目いらないよね」

「……アスリート、だから」

「夕食前だから一本で終わり」

「……うん」

赤ペン先生は強かった。旅行中でも赤ペン先生だった。

最強メンタル計画ちゃんは、空になった瓶を返却口へ入れ、しょんぼりと戻ってくる。

後輩ちゃんが申し訳なさそうに隣の席をぽんぽん叩いた。

「先輩、ここ座りますか?」

「……座る」

ちょこん。最強メンタル計画ちゃんが座る。右に同室の親友。左に後輩ちゃん。浴衣姿の三人が、温泉上がりの休憩スペースに並ぶ。

しばらく、扇風機の音だけが聞こえた。

ふわりと、湯上がりの空気。木の床のにおい。遠くから聞こえる旅館の人の声。

最強メンタル計画ちゃんは、まだ少しむくれていた。

だが、後輩ちゃんがそっと言った。

「でも、先輩」

「……なに」

「私、先輩のそういうところも好きです」

「そういうところ?」

「真面目で、すぐ一生懸命になって、ちょっと負けず嫌いで、でもちゃんとかわいくて」

「かわいく……」

「あと、背がどうとか関係なく、先輩は先輩です。私にとっては、ずっとすごい先輩です」

その言葉は、まっすぐだった。

からかいではなく。慰めでもなく。本当にそう思っている声だった。

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ目を瞬かせる。

同室の親友も、やさしく笑った。

「そうだよ。背が高くても低くても、あんたはあんただよ」

「……でも、後輩ちゃんより低い」

「そこは気にしてるんだ」

「気にしてない」

「気にしてるよ」

「……ちょっとだけ」

ようやく白状した。

後輩ちゃんが、ふふっと笑う。

「じゃあ、こうしましょう」

「こう?」

後輩ちゃんは立ち上がると、少しかがんだ。そして最強メンタル計画ちゃんと目線を合わせる。

「これで同じくらいです!」

「ちがう」

「だめですか?」

「……気遣われてる感じ、する」

「じゃあ……」

後輩ちゃんは少し考えたあと、今度は最強メンタル計画ちゃんの隣に座り直し、背筋をぴんと伸ばした。

「先輩、身長では負けてますけど、かわいさでは勝ってます!」

「……勝ちたくない」

「えっ、でも先輩かわいいですよ?」

「後輩ちゃん!」

同室の親友がとうとう吹き出した。

「もうやめてあげて」

「すみません!」

「でも、まあ」

同室の親友は、空になったコーヒー牛乳の瓶を持ちながら、少しだけ目を細めた。

「背が低いのを気にして、無言で牛乳買いに行くのは、だいぶかわいかった」

「親友まで!」

最強メンタル計画ちゃんの耳がぴんと立った。尻尾もふわっと膨らんだ。顔が赤い。温泉のせいではない。たぶん。

「ちがう。アスリートだから」

「はいはい」

「ほんと」

「うんうん」

「……信じてない」

「信じてるよ。牛乳は体にいいもんね」

「そう」

「背も伸びるといいね」

「親友!」

休憩スペースに、また笑い声が広がった。

少し恥ずかしい。ちょっと悔しい。でも、不思議と嫌ではなかった。

親友にからかわれて。後輩に慕われて。温泉上がりに牛乳を飲んで。くだらないことで少しむくれて、すぐに笑って。

こういう時間も、たぶん大切なのだと思う。

最強メンタル計画ちゃんは、ふと自分の手元を見る。メモ帳はない。だから、この感覚を書き留めることはできない。

けれど、書かなくても覚えていられる気がした。

旅行。温泉。牛乳。親友。後輩。そして、頭半分の差。

……頭半分。

「……帰ったら、身長測定――」

「はい、研究禁止四回目」

「あっ」

「先輩、アウトです」

「研究じゃない。測定」

「測定から研究に行くでしょ」

「行かない」

「本当に?」

「……少しだけ」

「アウト」

同室の親友は、笑いながら立ち上がった。

「ほら、そろそろ夕食の時間だよ」

「夕食!」

後輩ちゃんの目が輝く。最強メンタル計画ちゃんも、ぱっと顔を上げた。

「……会席、楽しみ」

「そう。あと、花の香りのゼリーが出るって」

「花の香り……」

最強メンタル計画ちゃんの耳が、ぴくりと動いた。同室の親友が、すぐに気づいた。

「今のなし」

「……まだ何も言ってない」

「顔が言ってた」

「顔が……」

後輩ちゃんが楽しそうに笑う。

「先輩、夕食も楽しみですね!」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは静かに頷いた。

牛乳一本分、少しだけ強くなった気がする。

別に背を伸ばしたいわけではない。べつに。ただ、アスリートとして。カルシウムは大切なのである。


── 花香ゼリー・研究禁止の破綻 ──

夕食は、信じられないくらい豪勢だった。

広い個室。畳の香り。低い座卓。窓の外には、夜の温泉街の灯りがぽつぽつと見えている。

季節の小鉢。山菜の天ぷら。地元野菜を使った煮物。川魚の塩焼き。お造り。炊き込みご飯。味噌汁。

ひとつひとつが綺麗で、あたたかくて、やさしい味がした。

「おいしい……!」

最強メンタル計画ちゃんは、思わず頬を押さえた。温泉で温まった体に、丁寧な料理がしみわたる。

「先輩、この天ぷらすごいです!」

「……衣、さくさく」

「二人とも、ゆっくり食べなよ」

同室の親友はそう言いながらも、口元を緩めている。

研究禁止。企画禁止。測定禁止。メモ帳没収。それでも楽しい。

いや、むしろ楽しい。

何かを作るためではなく。何かを試すためではなく。ただ、おいしいものをおいしいと思って食べる。

それがこんなに幸せだとは、少し忘れていた気がする。

やがて、料理の最後。

仲居さんが、にこやかに小さな器を三つ運んできた。

「こちら、当館特製の花香ゼリーでございます」

透明な器の中に、淡い色のゼリーが揺れていた。薄い桃色。ほんの少し金色を帯びた光。中には小さな花びらのようなものが閉じ込められている。

それは宝石みたいで、硝子細工みたいで、食べるのがもったいないくらい綺麗だった。

「わあ……」

後輩ちゃんが見とれたように声を漏らす。

「綺麗ですね……!」

最強メンタル計画ちゃんも、目を奪われた。

ふわりと、甘い香りがする。花の香り。けれど香水のように強いわけではない。自然で、やわらかくて、どこか懐かしい。心をほどくような香りだった。

その瞬間。

最強メンタル計画ちゃんの中で、何かが立ち上がりかけた。

香り。甘味。きれい。温泉のあと。ごはんのあと。

……みんなが、癒やされる。

メモを取らねば。

そう思った。ほぼ反射だった。

しかし。

最強メンタル計画ちゃんは、ぴたりと手を止めた。

メモ帳はない。そもそも没収されている。そして今日は旅行。親友と。後輩と。三人で来た、大切な旅行である。

研究ではない。実験ではない。トレーニングでもない。

だから。

最強メンタル計画ちゃんは、胸の奥から湧いてきた研究心を、ぐっと押し戻した。

えらい。とてもえらい。これは間違いなく成長だった。

同室の親友も、その様子に気づいたらしい。

「今、何か考えた?」

「……考えてない」

「本当に?」

「今日は、旅行」

最強メンタル計画ちゃんは、静かに言った。

同室の親友は、目を丸くしたあと、やさしく笑った。

「そっか。えらいじゃん」

「……うん」

後輩ちゃんも、ぱあっと笑う。

「先輩、すごいです!」

「……ふふん」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ胸を張った。

そう。今の自分は違う。研究心に支配されるだけの自分ではない。ちゃんと旅行を楽しむことができる。

最強メンタル計画ちゃんは、成長しているのだ。たぶん。

「じゃあ、せっかくだから三人で一緒に食べよっか」

「……いい」

「せーので食べましょう!」

後輩ちゃんが嬉しそうにスプーンを持つ。最強メンタル計画ちゃんもスプーンを握った。

三つの器。三つのスプーン。三人で顔を見合わせる。

温泉上がり。豪勢な夕食のあと。旅館の個室。綺麗な花のゼリー。

なんて平和な時間だろう。

「じゃあ、いくよ」

「ん」

「はい!」

「せーの」

三人は同時に、ゼリーを口へ運んだ。

ぷるん、とした食感。ひんやりとした甘さ。

そして次の瞬間。

ふわり。

甘い花の香りが、口いっぱいに広がった。

舌の上ではなく。喉でもなく。鼻でもなく。

もっと奥。頭の中。胸の中。心の奥の、やわらかいところに直接届くような香りだった。

甘い。やさしい。あたたかい。なつかしい。包まれる。ほどける。力が抜ける。

最強メンタル計画ちゃんは、目を見開いた。

これは。これはまずい。

おいしい。ものすごくおいしい。でも、それだけではない。

香りが、強すぎる。いや、強いというより、深い。

温泉でゆるんだ体。満腹でほどけた心。旅先の安心感。親友と後輩が隣にいる幸福感。そこへ、この花の香りが重なる。

危険物ではない。危険物ではないはずだ。これはただの旅館のデザート。

なのに。なのに。

「……あ」

隣で、後輩ちゃんが小さく声を漏らした。

視線を向ける。後輩ちゃんの表情が、とろんとしていた。目が潤んでいる。頬が赤い。幸せそうに、口元がゆるんでいる。

「先輩……これ……すごく……」

そこまで言って。

後輩ちゃんの体が、ふにゃりと傾いた。

「後輩ちゃん!?」

最強メンタル計画ちゃんが叫ぼうとした。だが、その声は最後まで出なかった。自分の視界も、ふわふわと揺れ始めていたからである。

畳。器。親友の顔。花の香り。旅館の灯り。

全部がやわらかく溶けていく。

ああ。だめだ。

これは。ものすごく。リラックス効果が。高い。

……もったいない。

でも今日は。旅行。

でも、メモ――

「……メモ……」

「取らなくていい!」

同室の親友の声が聞こえた気がした。

次の瞬間。

最強メンタル計画ちゃんも、幸せそうに意識を手放した。

ぱたり。

畳の上に、二人分の気配が沈む。個室に、静寂が訪れた。


── 赤ペン先生、ひとりで収拾する ──

同室の親友は、スプーンを持ったまま固まっていた。

目の前には、気絶した二人。一人は後輩。一人は問題児。どちらも顔は幸せそうである。呼吸も穏やか。苦しそうではない。むしろ、ものすごく満ち足りた顔をしている。

「……え?」

同室の親友は、自分の手元のゼリーを見る。

自分も食べた。確かにおいしかった。確かに香りはよかった。でも、気絶するほどではない。少し眠くなるくらいではある。温泉上がりだし。満腹だし。リラックスしているし。

まあ、分かる。分かるが。

二人とも即落ちするほどか?

「……ええ?」

同室の親友は、もう一度二人を見る。

後輩ちゃんは、にへら、と笑っている。

最強メンタル計画ちゃんは、うわごとのように小さく呟いた。

「……花……香り……安全基準……」

「寝言で研究しない」

同室の親友は即座に突っ込んだ。反射だった。もう体に染みついていた。

すると、襖の向こうから仲居さんの声がした。

「お味はいかがでございましたか?」

同室の親友は、気絶した二人を見る。ゼリーを見る。自分のスプーンを見る。もう一度、二人を見る。

そして、可能な限り落ち着いた声で答えた。

「……とても、おいしかったです」

「それはようございました」

「あの、すみません」

「はい?」

「このゼリー、何か特別な効果とかありますか?」

仲居さんは、襖を少し開けて、にこりと笑った。

「地元の花を使っておりまして、香りに癒やされると評判なんですよ。温泉のあとに召し上がると、よく眠れるとお客様にも人気でございます」

「よく眠れる」

「はい。皆様、食後はぐっすりお休みになられます」

同室の親友は、畳の上でぐっすりしている二人を見た。

ぐっすり。たしかに、ぐっすり。あまりにもぐっすり。

「……なるほど」

納得していいのか、してはいけないのか分からなかった。

仲居さんは、二人が眠っているのに気づいて、微笑ましそうに手を合わせた。

「あらまあ。温泉でお疲れが取れて、安心なさったんですね」

「たぶん、そうです」

そういうことにした。そういうことにするのが一番平和だった。

同室の親友は、ひとまず二人の様子を確認する。

呼吸よし。顔色よし。幸せそう。危険なし。

ただし、問題児の頭の中では何か危険な企画が芽吹いている可能性あり。そこだけ危険

「……旅館のデザートで気絶って何」

ぽつりと呟く。

後輩ちゃんが、寝言のように言った。

「……おいしい……です……先輩……」

最強メンタル計画ちゃんも続いた。

「……みんなを……癒やせる……」

「やめて」

同室の親友は、低い声で言った。

「今、絶対にやめて」

しかし、眠っている本人には届かない。最強メンタル計画ちゃんは、幸せそうな顔のまま、さらに小さく呟く。

「……花……ゼリー……環境化……」

「旅行中に真計画を始めるな」

「……安全……おいしい……みんな……笑顔……」

「方向性だけは善良なのが一番困る」

同室の親友は、頭を抱えた。


この旅は楽しい旅行になる。そう思っていた。

実際、楽しい。温泉もよかった。料理もおいしかった。二人の笑顔も見られた。そこまでは完璧だった。完璧だったのだ。

ただ、旅館のデザートで二人が幸せそうに気絶した。それだけである。

それだけ。それだけとは。

「……たづなさんに報告したら、胃が痛くなるかな」

いや、報告する必要はない。まだ何も起きていない。これはただの旅行先の出来事。研究もしていない。企画書も書いていない。危険物も作っていない。

まだ。まだ、である。

同室の親友は、そこに一番嫌な予感を覚えた。

なぜなら。最強メンタル計画ちゃんは、眠っている。眠っているが。

その表情が、あまりにもひらめいた時の顔に近かったからである。

幸せそうで。満ち足りていて。どこか、何かを掴んだような顔。

「……起きたら、まずメモ帳は返さない」

同室の親友は固く決意した。

そして仲居さんに頼んで、二人を部屋まで運ぶ手配をする。

幸せそうに眠る後輩ちゃん。幸せそうに眠る最強メンタル計画ちゃん。

その横で、同室の親友はひとり、残ったゼリーを見つめた。

綺麗な色。甘い花の香り。旅館特製の癒やしのデザート。

たしかにおいしい。たしかに素晴らしい。

でも。

最強メンタル計画ちゃんに与えてはいけない種類の刺激だったかもしれない。

「……明日は香草園、行くのやめようかな」

そう呟いた瞬間。

眠っているはずの最強メンタル計画ちゃんの耳が、ぴくりと動いた。

同室の親友は、それを見逃さなかった。

「聞こえてるな?」

「……」

「寝たふりでも、香草園はだめだからね」

「……」

「だめだからね」

返事はない。

けれど、尻尾がほんの少しだけ、しゅんと下がった。

同室の親友は、深々とため息をついた。

旅行一日目。温泉。牛乳。豪勢な夕食。花の香りのゼリー。そして、二名気絶。

楽しい旅行になるという予感は、間違っていなかった。

ただし。

普通の旅行になるという保証は、どこにもなかったのである。