外伝08:理事長・業務継続型休眠状態(真V7・インナーイヤホン事件)


── 朝の理事長室 ──

理事長室の朝は、いつも忙しい。

トレセン学園という場所は、華やかなレースやライブだけで回っているわけではない。

生徒の予定。トレーニング施設の管理。レース関係者との調整。医療班からの報告。保護者対応。寮の備品。食堂のメニュー。安全管理。そして、時々発生する謎の危険物報告。

特に最後の項目は、ここ最近やけに増えていた。

駿川たづなは、今日も書類の山を前にしていた。

「理事長、本日の確認書類はこちらです。午前中に目を通していただきたいものだけ、こちらに分けてあります」

「承知ッ!」

秋川やよい理事長は、いつものように小柄な身体で大きく頷いた。その声は快活。姿勢は堂々。目は輝いている。

いつも通りの理事長。

……に見えた。

たづなは手元の資料を整えながら、少しだけ眉を寄せた。

何かが違う。いや、違うような気がする。

しかし理事長は、きびきびとペンを取り、書類に目を通し始めていた。


「こちらの施設利用申請は、午後の練習時間と重なっていますので、日程変更をお願いします」

「承知ッ!」

「こちらは医療班への確認が必要です」

「了解ッ!」

「こちらは一度、学年主任の先生方にも共有してください」

「共有ッ!」

仕事は速い。むしろ、いつもより速い。

「……理事長、今日はずいぶん集中されていますね」

「当然ッ! 学園運営に停滞なしッ!」

理事長は胸を張った。いつも通り。いや、いつも以上に頼もしい。

たづなは少し安心しかけた。

まさか理事長が。意識を失ったまま、仕事をしているなどとは。


書類をめくる。付箋を貼る。サインをする。判子を押す。時々、堂々と頷く。

その動きに迷いはない。

ただし、表情は少しだけおかしかった。

口元が緩い。目元がとろんとしている。耳が微妙にぴこぴこしている。

たづなは、ペンを走らせながら何度か顔を上げた。気になる。気になるが、仕事は進んでいる。そして理事長は、こちらの指示に対して妙に素直だった。

「理事長、休憩はまだしないでください。先に三枚だけ確認を」

「承知ッ!」

「理事長、その書類は後回しです」

「了解ッ!」

「理事長、今はお茶を淹れなくて大丈夫です」

「無念ッ!」

「無念ではありません」

「承知ッ!」

たづなは少し首を傾げた。理事長は普段から素直な時は素直だが、ここまで即応するだろうか。特にお茶やお菓子や新企画に関わることになると、何かしら一言は挟む。

しかし今日は、ほぼすべて「承知」「了解」「心得た」で進んでいる。

仕事は進む。非常に進む。進みすぎるほど進む。

たづなの中で、疑念と実務効率の天秤が揺れた。

……助かる。いや、違う。助かっている場合ではない。

しかし本当に助かる。午前中に終わらないと思っていた書類が、すでに半分以上片付いている。


「理事長」

「何用ッ!」

「体調に問題はありませんか?」

「良好ッ!」

「眠気は?」

「皆無ッ!」

「頭ははっきりしていますか?」

「明晰ッ!」

「……今日の朝食は?」

「ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、ひじきの小鉢ッ!」

即答。完璧。体調確認としては問題ないように見える。

「では、昨日私が最後に言ったことは?」

危険物には触らないように、絶対に試さないように、理事長には特に強く申し上げます、とッ!」

「覚えているんですね」

「当然ッ!」

理事長は胸を張った。とても堂々としていた。

その耳元で、小さな何かが見えた気がした。

たづなの目が細くなる。


「……理事長」

「何用ッ!」

「少し、こちらを向いてください」

「承知ッ!」

理事長が顔を上げる。まっすぐたづなを見る。いつもの強気な瞳。

ただし。焦点が少しだけ合っていない。

幸せそうだった。ものすごく幸せそうだった。

たづなの心臓が、嫌な音を立てた。

「理事長。右耳を見せてください」

「……」

理事長が固まった。

「理事長?」

「業務中ッ!」

「右耳を見せてください」

「書類優先ッ!」

「理事長」

「学園運営に停滞なしッ!」

たづなは立ち上がった。理事長の肩が、びくりと揺れた。


帽子と髪の隙間から耳元を見る。

あった。

小さなインナーイヤホン。理事長の耳に、しっかり装着されていた。

たづなは目を閉じた。

一秒。二秒。三秒。深呼吸。

「理事長」

「何用ッ!」

「それは、何ですか?」

「……耳への負担が少ない小型音響機器ッ!」

「真V7ですね?」

「……技術検証用参考機材ッ!」

「真V7ですね?」

「……はい」


「いつからつけていますか?」

「……朝から」

「なぜですか?」

「……業務上の確認を」

「昨日、触らないように言いましたね?」

「言われたッ!」

「覚えていましたね?」

「覚えていたッ!」

「では、なぜつけたんですか?」

理事長は、視線を泳がせた。

「……少しだけなら」

「少しだけ?」

「装着感の確認を」

「……ばれないように、帽子と髪で隠しましたね?」

「……はい」

「つまり、駄目だとわかっていましたね?」

「……はい」

理事長はどんどん小さくなっていった。


たづなは静かに近づいた。

「理事長。それを外してください」

理事長の両手が、反射的に耳を覆った。

「やっ……」

たづなは眉を上げた。

「外してください」

「……業務上、もう少し検証を」

「外してください」

「……しかし」

「外してください」

「……」

理事長は耳を覆ったまま、視線をそらした。

たづなは理解した。

同室の子の報告書にあった現象。『外してと言われると拒否します』

理事長にも、発生している。しかも厄介なことに、理事長は地位と語彙と好奇心があるため、拒否の言い訳が増える。


たづなは静かに近づいた。

「理事長」

「たづな、待てッ。これは貴重な検証であり――」

「外します」

「待てッ! せめて記録を――」

「外します」

「業務上の確認が――」

「外します」

「たづなッ!」

理事長が椅子ごと後ろへ下がろうとする。

だが、たづなは速かった。普段は秘書として穏やかに振る舞っている。しかし、彼女は自由奔放な理事長のブレーキ役を長年務めてきた人物である。

まず右手を押さえる。次に左手。理事長が耳を守ろうとする。たづなは一切迷わず、右耳のイヤホンを外した。

「ひゃっ」

「声を上げないでください」

続けて左耳。

外した。

部屋に、現実の音が戻る。たづなの声は、たづなの声になった。


理事長は、数秒ぽかんとしていた。

そして。

「……あ」

目の焦点が戻った。口元の緩みが消えた。耳がぴんと立った。

その直後、理事長は自分の状況を理解したらしい。

机の上の書類。外されたイヤホン。たづなの視線。

理事長は、小さく咳払いした。

「……たづな」

「はい」

「これは、その」

「はい」

「仕事は進んでいる」

「進んでいますね」

「学園運営には、むしろ貢献が」

「理事長」

「はい」


たづなはイヤホンをハンカチで包み、封筒に入れた。封筒の表に大きく書く。

『真V7・理事長使用済み。再封印。要注意』

それから理事長の前に立った。

「まず確認します」

「……はい」

「昨日、私は真V7には触らないように言いました」

「……はい」

「特に理事長には、絶対に試さないように言いました」

「……はい」

「それを覚えていました」

「……はい」

「覚えていた上で、つけました」

「……はい」

「ばれないように、帽子と髪で隠しましたね?」

「……はい」

「つまり、駄目だとわかっていましたね?」

「……はい」

理事長はどんどん小さくなっていった。

「意識はありましたか?」

「……」

「理事長?」

「……途中から、少し、夢見心地だった可能性が」

「気絶していましたね?」

「……業務継続型休眠状態ッ!」

「新しい言葉を作らないでください」


たづなの声は静かだった。静かすぎた。

「理事長」

「……はい」

「仕事が進んでいたことは認めます。理事長が業務熱心であることも知っています」

「……」

「ですが」

たづなは、封筒を机の上に置いた。

「今回の件で新しく追記します」

手帳を開き、赤ペンで書く。

真V7:理事長単独使用・永久禁止

前科:通算で相当数

理事長の好奇心管理:最優先事項として継続

「……たづな」

「なんでしょう」

「仕事は、本当に進んでいた」

「知っています」

「スピカの声で言われると、なんでも素直に承知してしまうのはわかった」

「……それは、非常に危険な情報です」

「……む」

「理事長」

「はい」

「今後は、封印物への接近を感知した場合、先に私が全指示を出しておきます」

「……業務効率を」

「上げません」

「……はい」


理事長は、しばらく神妙な顔をしていた。

珍しかった。

本当に珍しかった。

「……たづな」

「はい」

「あの技術は」

理事長の声が、少しだけ静かになった。

「スピカの声ではなく、正しく使えば、誰かの助けになりうると思う」

たづなは少し間を置いた。

「……そうですね」

「私が試したかったのは、その……確かに、確認したいという気持ちもあった」

「知っています」

危険かどうかを確認するためだけ、とは言えない」

「……言えませんね」

理事長は、手を膝の上に置いた。

「だが、本当に誰かの声を届けるために使われたら、いいと思う」

「それは、今まさに医療班が進めています」

「……そうか」

「理事長が試さなくても、ちゃんと進んでいます」

「……そうか」

理事長は、少しだけ目を細めた。

悔しいような、嬉しいような、複雑な顔だった。

「ならば」

「はい」

「私は、邪魔をしないように」

「それが一番です」


その日の午後。

書類は、午前中に驚くほど片付いていた。

たづなは、新しい管理事項を手帳に書き加えながら、小さくため息をついた。

一つ気になることがあった。

真V7が装着された状態で、業務は確かに進んでいた。判子も正確だった。サインも崩れていなかった。指示には素直に従っていた。

つまり、意識がない状態でも、理事長の職能は維持されていた。

それは、どう評価すべきなのか。

「……考えるのをやめよう」

たづなは手帳を閉じた。

廊下の向こうから、理事長の元気な声が聞こえた。

「承知ッ!」

何かの電話に出ているらしい。今度は普通に。

たづなは小さく息を吐いた。

前科、今回でまた増えた。

しかし今日も学園は回っている。

それだけで、十分だった。

今日のところは。