担当トレーナーの独白
最初にあの子が入ってきたときのことは、今でもよく覚えています。
新入生らしく少し緊張していて、自己紹介の声も小さめで、でも目だけはちゃんと前を見ていました。
「おとなしい子かな」
最初の印象は、それでした。
少し人見知りで、少し自信がなくて、でも真面目。
こちらが話したことは一生懸命聞いてくれて、メモも取って、翌日にはちゃんと練習に反映しようとする。
ああ、この子は伸びるな。
そう思いました。
実際、伸びました。
未勝利戦では何度か負けました。
勝てそうで勝てない。
最後の直線で気持ちばかり前に出て、脚の使いどころを少し間違える。
周りの動きに反応しすぎて、早めに仕掛けてしまう。
いわゆる、掛かりやすい子でした。
でも、負けたあとに腐る子ではありませんでした。
悔しそうに俯いて、涙をこらえて、それでも私のところに来て。
「次はどうすればいいですか」
そう聞いてくれる子でした。
だから私は、いつも通りに言ったんです。
「焦らなくていいよ」
「自分の走りを信じよう」
「周りに揺さぶられても、一呼吸置けるようになろう」
「気持ちを強くするのも、トレーニングのひとつだからね」
ええ。
言いました。
私は、確かに言いました。
正しく伝えたはずなんです。
……本当に、正しく伝えたはずなんです。
その頃でしたね。
スピカさんが現れたのは。
私も、まあ、焼かれました。
引退して、もう現役の頃みたいな熱は少し落ち着いたと思っていたんです。
レースを見る目も、トレーナーとして冷静になっていたつもりでした。
でも、あれは駄目でした。
ウマ娘の走る姿が好きだと、真っ直ぐ言ってくれる声。
勝った子だけじゃなく、負けた子も同じレースを走った仲間だと見てくれる眼差し。
あの人の歌は、現役だった頃の自分まで肯定されたような気がして。
……はい。
私も普通に脳を焼かれました。
そこは否定しません。
でも、それとこれとは別なんです。
私が焼かれたことと、担当の子が最強メンタル計画を始めたことは、たぶん、直接の因果関係は……。
いえ。
少しは、あるんでしょうね。
あの子もスピカさんの歌を聞いて、変わりました。
前向きになりました。
走ることに対して、もっと真剣になりました。
負けても、ただ落ち込むだけじゃなくなりました。
「もっと強くなりたいです」
そう言うようになりました。
私は嬉しかったんです。
本当に。
担当の子が、自分の弱さから逃げずに、もっと強くなりたいと言ってくれた。
トレーナーとして、こんなに嬉しいことはありません。
だから私は言いました。
「じゃあ、一緒にメンタル面も鍛えていこうね」
……。
今、思うと。
その一言が、始まりだったのかもしれません。
いえ、違います。
言葉自体は普通です。
普通のトレーナーなら言います。
メンタル面の強化は大事です。
レースでは脚だけではなく、心の強さも必要です。
私は何も間違っていません。
たぶん。
おそらく。
きっと。
それからしばらくは、本当に順調でした。
深呼吸の練習。
レース映像を見ながらの振り返り。
スタート前に緊張しすぎないためのルーティン作り。
周りの動きに反応しすぎず、自分のリズムを保つ練習。
少しずつ、あの子は落ち着いて走れるようになりました。
未勝利戦を勝ったときは、私も泣きそうになりました。
あの子はゴール後、信じられないという顔をして。
そのあと、私の方を見て、子どもみたいに笑ったんです。
「あ、勝てた」
って。
私は、その顔を見て思いました。
この子を担当できてよかったな、って。
本当に、そう思ったんです。
そこまでは。
そこまでは、普通だったんです。
ある日、あの子がノートを持ってきました。
「トレーナーさん、相談があります」
真面目な顔でした。
私は、てっきり次のレースの話だと思いました。
あるいは、練習メニューの相談。
もしくは、最近少し疲労が溜まっているから、調整したいという話。
そういう、普通の相談だと思いました。
あの子はノートを開いて、言いました。
「最強メンタル計画です」
私は、少し笑いました。
かわいい名前をつけたな、と思ったんです。
自分なりにメンタルトレーニングの目標を立てたのかな、と。
「いいね。どんな計画?」
そう聞きました。
ええ。
聞いてしまいました。
そのときの私は、まだ知りませんでした。
計画という単語が、あの子の中でどれほど本気の意味を持っているのかを。
メンタルトレーニングという言葉が、どれほど広く解釈されるのかを。
そして、あの子の実行力が、どれほど常識の外側にあるのかを。
最初の説明は、まだ理解できるものでした。
「スピカさんの声を聞くと元気が出ます」
「元気が出るなら、練習中も少しだけ聞こえればメンタルが安定すると思うんです」
「聞こえるか聞こえないかくらいの音量なら、集中力を邪魔しないかもしれません」
発想だけなら、まあ、わからなくもありません。
音楽を使ったリラックス。
応援音声による気分の安定。
集中力を高めるための環境作り。
スポーツ心理学的に、完全に否定するものではありません。
だから私は言いました。
「発想は面白いけど、安全確認と許可が必要だね」
「音源の扱いもあるし、まずは企画書にまとめよう」
「自分だけで試す前に、必ず相談してね」
正しく言いました。
言いましたよね?
私は、ちゃんと止めるところは止めました。
そのつもりでした。
翌日、試作品がありました。
なぜでしょうね。
私は昨日、企画書にまとめようと言ったはずなんです。
試作品を作ろうとは言っていません。
自分だけで試そうとも言っていません。
けれど、あの子は目を輝かせていました。
「まだ試してないので安全です!」
安全の定義が、すでに違いました。
そのとき、私は初めて少しだけ思いました。
あれ?
この子、もしかして、真面目な方向が少し変わっている?
と。
その後のことは、皆さんもご存じの通りです。
音声。
VR。
静止画。
立体物未遂。
香り。
四感。
五感。
グミ。
ハンドクリーム。
リップクリーム。
花。
装置。
技術革新。
企業板。
研究所。
理事長室の金庫。
……並べると、意味がわかりませんね。
担当トレーナーとしての私の業務日誌にも、意味のわからない単語が増えました。
昔はこうでした。
『本日、坂路トレーニング。終盤のフォームに改善あり』
『スタート練習。反応は良いが、少し前のめり』
『疲労を考慮し、明日は軽めの調整』
今はこうです。
『本日、坂路トレーニング。終盤のフォームに改善あり』
『睡眠時間確認。問題なし』
『昨日の夜、何か作っていないか確認。本人曰く、構想のみ』
『構想の内容を確認。五感という単語が出たため警戒』
『同室の子へ共有』
『たづなさんへ念のため報告』
『理事長には未共有。理由:触るため』
おかしいですね。
トレーナー業務とは。
ただ、誤解しないでほしいんです。
あの子は、悪い子ではありません。
本当に、まったく悪い子ではないんです。
話は聞いてくれます。
注意すると、ちゃんと反省します。
謝ることもできます。
次から気をつけようともします。
ただ、次の「気をつける」が、想定外の方向へ進むだけです。
「今回は音量が強すぎたので、もっと自然にします」
「今回は視覚が強すぎたので、環境に溶け込ませます」
「今回は近距離が危険だったので、日常に分散させます」
「今回は香りが濃すぎたので、食品として調整します」
「今回は食品で気絶したので、味だけではなく食感も――」
待って。
という言葉を、私は何度言ったかわかりません。
でも、待ってと言うと、待ってくれるんです。
そこがまた、難しいところなんです。
完全に聞かない子なら、もっと強く止められます。
危険だから駄目。
禁止。
没収。
それで終わりにできます。
でも、あの子は聞くんです。
「はい、わかりました」
「危ないところがありました」
「次はちゃんと相談します」
「赤ペン先生にも見てもらいます」
そう言って、真面目にノートを直します。
そして、直した結果、完成度が上がります。
なんででしょうね。
普通、危険なものは修正すると危険度が下がるはずなんです。
あの子の場合、危険な部分を削ると、なぜか商品価値や技術完成度が上がるんです。
トレーナーとしては、褒めるべきなんでしょうか。
成長しています。
努力しています。
課題を見つけ、改善し、次に活かしています。
トレーニングに必要な資質としては、非常に優秀です。
非常に。
方向以外は。
レースの話をしましょう。
あの子は、本当に強くなりました。
最初の頃のように、すぐ周りに反応して掛かることは減りました。
自分のリズムを守れるようになりました。
途中で揺さぶられても、すぐに崩れなくなりました。
負けても、ただ落ち込むのではなく、次に何をするか考えられるようになりました。
一着を取ったあの日。
あの子は、ちゃんと自分の走りを貫きました。
周りに惑わされず、最後まで脚を残して、勝ち切りました。
あの走りを見たとき、私は胸を張って言えました。
この子は成長した。
担当として、誇らしかった。
そのあと、スピカさんのファンサで幸せそうに気絶しました。
どうして。
本当に、どうして。
レースではあんなに強くなったのに。
あんなに落ち着いて、自分の走りを信じられるようになったのに。
スピカさんが微笑んだ瞬間、全部持っていかれる。
対レースメンタルは伸びました。
対スピカメンタルは、ほぼ初期値です。
ここだけ、なぜか成長しません。
いえ、もしかすると成長しているのかもしれません。
昔なら一秒で倒れていたところを、今は二秒耐えているのかもしれません。
誤差ですね。
でも、それでいいのかもしれない、とも少し思っています。
スピカさんへの憧れは、あの子の原動力です。
走りたい。
強くなりたい。
誰かのためになりたい。
もっと良いものを作りたい。
前に進みたい。
その気持ちの中心に、スピカさんの歌と言葉があります。
だから、全部を否定することはできません。
危険なものは止めます。
無茶は止めます。
睡眠を削るなら叱ります。
勝手に試すなら怒ります。
理事長が触ろうとしたら、たづなさんを呼びます。
でも。
あの子が何かを良くしたいと思う気持ちまでは、潰したくないんです。
担当トレーナーとして、私はあの子を速くしたい。
強くしたい。
怪我なく、長く走れるようにしたい。
そして、走ることを好きなままでいてほしい。
そのために、あの子の真っ直ぐさは必要なんです。
真っ直ぐすぎて、たまに壁を貫通しますけど。
いや、たまにではないですね。
よく貫通しますね。
でも、真っ直ぐなんです。
だから、私は今日も聞きます。
「昨日はちゃんと寝た?」
「脚に違和感はない?」
「朝ごはんは食べた?」
「今日のメニューは確認した?」
「何か思いついてない?」
最後の質問に、あの子は少し目を逸らします。
私は、深呼吸します。
「怒らないから言ってみて」
すると、あの子はノートを出します。
最近、その瞬間に少しだけ心拍数が上がるようになりました。
現役時代のゲート前より緊張するかもしれません。
でも、ノートを開くあの子の顔は、いつも真剣です。
誰かを困らせたいわけじゃない。
褒められたいだけでもない。
自分だけが楽しみたいわけでもない。
ただ、もっと強くなりたくて。
誰かを元気にしたくて。
自分が救われたものを、誰かにも届けたくて。
それが少し、かなり、だいぶ、ものすごく、明後日の方向へ走っているだけで。
……だけ、では済まないことも多いですが。
私は、担当トレーナーです。
あの子の走りを見ます。
あの子の体調を見ます。
あの子の心を見ます。
あの子のノートも見ます。
最近は、企画書の危険語句にも少し詳しくなりました。
「環境化」
「五感」
「日常に溶け込む」
「薄めれば安全」
「理論上」
「スピカさん要素は少しだけ」
「今回は大丈夫」
このあたりは、赤丸です。
赤ペン先生ほど綺麗には添削できませんが、私もだいぶ慣れました。
慣れたくはありませんでした。
けれど、あの子が成長しているのは本当です。
走りも。
心も。
周りへの配慮も。
相談する力も。
失敗したあとに、ちゃんと立ち上がる力も。
ものすごく強くなりました。
だからこそ、時々わからなくなります。
私は、ちゃんと育てられているのでしょうか。
あの子は、良い方向へ進んでいるのでしょうか。
それとも私は、危険物を作る才能まで育ててしまっているのでしょうか。
たづなさんに相談したら、少し疲れた顔で言われました。
「どちらも、だと思います」
否定してほしかったです。
理事長は言いました。
「才覚ッ! 彼女の発想は唯一無二であるッ!」
その後、たづなさんに怒られていました。
同室の子は言いました。
「トレーナーさんがいてくれるから、あの子はちゃんと走るところに戻ってこられるんだと思います」
少し、泣きそうになりました。
そうですね。
そうであればいいなと思います。
あの子は、放っておくとどこまでも走っていきます。
レース場の外へ。
研究室へ。
厨房へ。
企業板へ。
国家機密の手前へ。
だから私は、言い続けます。
「まずは走ろうね」
あの子は頷きます。
「はい!」
良い返事です。
本当に良い返事なんです。
そして少し考えてから、言います。
「走りながらでもできるメンタルトレーニングって――」
「走ろうね」
「はい」
私は担当トレーナーです。
あの子は、私の担当ウマ娘です。
おとなしくて、真面目で、努力家で、素直で、前向きで、掛かりやすくて、成長していて、結果も残していて、スピカさんに弱くて、なぜかいろいろ作れてしまう子です。
本当に、いい子なんです。
いい子なんですよ。
それは間違いありません。
ただ。
本当に。
なんでこうなったんでしょうね……。