たづなさん回:睡眠の誘惑に負けてしまう駿川たづな
トレセン学園の朝は早い。
生徒たちの朝練。
トレーナーたちの予定確認。
施設管理。
食堂との連絡。
外部との調整。
理事長案件。
理事長案件。
理事長案件。
そして最近では、そこにさらに新しい分類が加わっていた。
最強メンタル計画ちゃん案件。
駿川たづなは、理事長室の机に置かれた報告書を前に、静かに目を閉じた。
目を閉じたのは、冷静になるためである。
眠るためではない。
決して眠るためではない。
「……V6.0、V6.1、V6.2」
机の上には、赤ペン先生こと同室の子から提出された報告書が並んでいる。
睡眠改善プロジェクト。
起床改善機能。
ご褒美方式。
そして、そのすべてに赤字の注釈が入っている。
『起きられない睡眠は改善ではない。
返事は起床ではない。
布団から出て初めて起床。
離床して倒れたら起床成功ではない。
活動開始までが起床。
イメージカラーも素材です。
感動させない。』
「……本当に、毎回名言だけは増えていきますね」
たづなは、疲れた声で呟いた。
報告書としては非常に優秀だった。
何が問題だったのか。
何が成功したのか。
どこから危険になったのか。
次に何を止めるべきか。
同室の子の整理は的確で、感情的になりすぎず、しかし危機感ははっきりしている。
たづなは、その点だけは心から評価していた。
評価していたが。
「……この子たちは、どうして一日単位で問題を更新してくるのでしょうか」
V6.0。寝られる。起きられない。
V6.1。返事はする。布団へ戻る。
V6.2。布団から出る。その後倒れる。
進んではいる。
間違いなく進んではいる。
だが、進むたびに別方向の問題が生まれている。
「普通に、寝て、普通に、起きる」
たづなは、報告書の端に指を置いた。
「それが、こんなに難しいとは……」
そのとき、理事長室の扉が勢いよく開いた。
「たづなッ! 例の睡眠改善装置の報告は来ているかッ!」
秋川やよい理事長である。
目が輝いていた。
非常に嫌な輝き方だった。
たづなは、報告書をすっと裏返した。
「来ています」
「おおッ! では詳細を!」
「詳細は私が確認します」
「む?」
「理事長は触らないでください」
「まだ何も言っていないぞッ!」
「言う前に分かります」
理事長は、少しだけ目を逸らした。
「……業務上の確認を」
「しません」
「資料として」
「しません」
「学園運営上、睡眠改善は重要で」
「しません」
「たづなは話が早すぎるッ!」
「理事長が分かりやすすぎるんです」
やよい理事長は、むむむ、と唸った。
だが、今回ばかりはたづなも譲れない。
「理事長。今回の装置はまだ安全確認が済んでいません。特にV6.2は離床後に倒れる危険があります」
「むう……それは確かに危険ッ!」
「はい。ですので、現時点では封印です」
「封印……」
やよい理事長の耳がしょんぼりした。
「……見るだけなら」
「だめです」
「光だけ」
「だめです」
「星のきらめきだけ」
「だめです」
「むう……!」
理事長は悔しそうだった。
それでも、たづなの表情を見て、今回は本当に危険だと判断したらしい。
「分かったッ! 私は触らん!」
「本当ですね?」
「本当だッ!」
「業務上の確認もしませんね?」
「……本当だッ!」
怪しい。
とても怪しい。
だが、今はそれ以上追及しても意味がない。
「では、私はこの装置の現物を確認してきます」
「むう……私も同行を」
「しません」
「まだ最後まで言っていない!」
「しません」
「むうう……」
たづなは報告書をまとめ、理事長室を出た。
現物は、すでに同室の子によって大部分が停止されていた。
ライトユニット。
星のきらめきユニット。
香りユニット。
重み調整布団。
床センサー。
制御端末。
それらが丁寧に並べられている。
横には、最強メンタル計画ちゃん、後輩ちゃん、同室の子の三人。
最強メンタル計画ちゃんと後輩ちゃんは正座していた。
「駿川さん……すみません」
同室の子が頭を下げる。
たづなは首を横に振った。
「あなたはよく対応してくれました。むしろ、ここまで早く止めてくれてありがとうございます」
「いえ……止めきれてはないので……」
「止めきれていなければ、今ごろ理事長が床で幸せそうに倒れていました」
「それは……」
三人が同時に黙った。
想像できてしまったのだ。
「なので、十分です」
たづなは、装置を見る。
見た目は、やはり普通に近い。
危険物らしい禍々しさはない。
むしろ丁寧に作られている。
配線も整理され、ユニット分けも明確。
安全停止ボタンもある。
バックアップも今回は同室の子が削除済み。
「……技術自体は、本当に悪くありませんね」
たづなは、思わずそう言った。
最強メンタル計画ちゃんの耳がぴくっと動く。
後輩ちゃんも顔を上げる。
「本当ですか……?」
「ええ。入眠環境の制御、離床判定、段階的な起床誘導。どれも着眼点は良いです」
「駿川さん……!」
最強メンタル計画ちゃんの顔が明るくなる。
だが、たづなはすぐに続けた。
「ただし、刺激が強すぎます。特に、あなたたちにとって強すぎるものを、無意識に入れてしまっています」
「はい……」
「声も、色も、星も、感動も。全部、刺激です」
「……はい」
「すごく綺麗だったんです……」
後輩ちゃんが、しゅんとしながら言う。
「ええ。報告書にもそうありました」
たづなは、少しだけ柔らかく言う。
「綺麗なこと自体が悪いわけではありません。ただ、朝の起床補助には強すぎたんです」
「朝は感動しなくていい……」
同室の子が呟いた。
「その通りです。朝は、静かに起きて、顔を洗って、ごはんを食べて、トレーニングや授業へ向かえれば十分です」
「普通……」
「はい。普通は、とても大事です」
その言葉に、二人は真剣に頷いた。
たづなは、装置一式を回収した。
「これも封印します。全て理事長室の金庫ではなく、備品管理室の危険物保管庫へ」
「理事長室じゃないんですか?」
最強メンタル計画ちゃんが聞いた。
たづなは、にこりと笑う。
「理事長室に置くと、理事長が試します」
「あ……」
三人とも納得した。
「ですから、私が管理します」
たづなはそう言って、装置一式を回収した。
その日の仕事は、長かった。
いつも長いが、今日は特に長かった。
午前中は睡眠改善装置の回収。
昼は外部との打ち合わせ。
午後はレース関連の調整。
夕方は理事長案件。
夜には報告書の整理。
机の上には、まだ書類が積まれている。
理事長は、今日は珍しく早めに帰った。
「たづなも早く休むのだぞッ!」
そう言い残して。
たづなは、小さく笑った。
「理事長に言われるとは……」
理事長室には、たづな一人。
静かだった。
時計の針の音が聞こえる。
遠くで、清掃員の足音。
窓の外には、夜のトレセン学園。
「……少しだけ、整理してから帰りましょう」
たづなは備品管理用の箱を開けた。
中には、回収した睡眠改善装置の一部。
危険な演出ユニットはすでに封印済み。
だが、入眠用の寝具ユニットだけは、安全確認のために別にしてある。
香りユニットは空。
音声なし。
ライトなし。
星なし。
スピカさん要素なし。
ただの、温度調整と重み制御だけの布団。
「……これなら」
たづなは、そこで思考を止めた。
だめです。
自分で分かっている。
こういうときに「これなら」と思うのが、一番危ない。
理事長にも言ったばかりだ。
触らないでください、と。
なのに。
「……少し、重みの確認だけ」
口から出た言葉に、自分で目を閉じる。
業務上の確認。
理事長のことを笑えない。
いや、笑ってはいないが。
「……私は、確認する側ですから」
たづなは、自分に言い聞かせた。
使用はしない。
寝ない。
ただ、重み調整が危険でないか確認するだけ。
ベッドではない。
理事長室の仮眠用ソファ。
そこに布団を広げる。
外部ユニットは接続しない。
温度調整も最小。
香りなし。
音なし。
ライトなし。
星なし。
スピカさんなし。
「本当に、ただの布団ですね」
たづなは苦笑した。
そっと、布団に手を置く。
柔らかい。
しかし、頼りない軽さではない。
安心できる重みがある。
「……なるほど」
これは、確かに良くできている。
身体に乗せたとき、どこか守られるような感覚があるのだろう。
そう思った瞬間。
たづなは、自分がかなり疲れていることに気づいた。
肩が重い。
目が乾く。
胃が少し痛い。
頭の奥が鈍く熱い。
ここ数日、最強メンタル計画ちゃん案件で気を張っていた。
理事長を止め。
報告書を読み。
装置を回収し。
外部からの問い合わせも整理し。
研究所の三徹報告にも目を通した。
「……少しだけ」
危険な言葉だった。
分かっていた。
しかし、ソファに腰を下ろしてしまった。
布団を膝にかける。
「……本当に、少しだけ」
布団の重みが、優しかった。
重すぎない。
軽すぎない。
膝から腰、肩へと、ゆっくり力が抜けていくような感覚。
たづなは目を閉じる。
「確認……確認です……」
部屋は静か。
香りもない。
音もない。
光の演出もない。
ただ、布団が暖かい。
それだけなのに。
「……これは」
良い。
非常に良い。
刺激がない。
感動もしない。
胸がいっぱいになることもない。
ただ、静かに身体が休もうとする。
これは、危険な幸福ではない。
暴力的な快楽でもない。
ただの休息。
普通の、休息。
「……普通は、大事……」
自分で言った言葉が、頭に浮かんだ。
たづなは、目を開けようとした。
しかし、瞼が重い。
「……いけません」
帰らなければ。
まだ書類が残っている。
この布団は封印しなければならない。
「……少しだけ」
二度目だった。
もうだめだった。
たづなは、布団を肩まで引き上げた。
ソファに横になる。
力が抜ける。
胃の痛みが少し遠のく。
眉間の力も抜ける。
「……これは……たしかに……」
最強メンタル計画ちゃんは、危険なものを作る。
だが、根本には善意がある。
休ませたい。
回復させたい。
強くなってほしい。
元気になってほしい。
その気持ちが、この布団には残っていた。
スピカさんではない。
星でもない。
色でもない。
ただ、誰かを休ませたいという善意。
たづなは、その誘惑に負けた。
静かに、眠りに落ちた。
翌朝。
理事長室の扉が開いた。
「たづなッ! 昨日の続きだが――」
秋川やよい理事長は、そこで止まった。
ソファの上。
駿川たづなが、布団に包まって眠っている。
とても穏やかな顔だった。
いつものきびきびした秘書の顔ではない。
自由奔放な理事長を支え、学園の雑務を抱え、外部対応に追われ、危険物を回収し、胃を痛めているたづなではない。
ただ、疲れて眠っている一人の女性だった。
理事長は、しばらく黙っていた。
そして、そっと扉を閉める。
足音を小さくして近づく。
机の上には、回収報告書。
備品箱。
そして、赤ペンで書かれたメモ。
『普通の休息は大事。
ただし業務中に試さない。』
最後の一文だけ、明らかにたづなの字だった。
理事長は、少しだけ目を細める。
「……たづな」
小さく呼ぶ。
たづなは起きない。
理事長は、もう一度呼ぼうとして、やめた。
幸せそう、というより。
安心している顔だった。
これまでの危険物で気絶したときのような、過剰な幸福ではない。
ただ、深く眠っている。
休んでいる。
理事長は、静かに笑った。
「……起きたら説教されるのは、今日は私ではなさそうだな」
そう呟きながら、机の上の書類をそっと片付ける。
そして、理事長室の札を裏返した。
打ち合わせ中
誰も入ってこないように。
その後、理事長はソファから少し離れた椅子に座った。
手元には、例の布団。
理事長は、じっと見た。
「……」
手を伸ばしかける。
止める。
「……業務上の」
言いかけて、首を振る。
「いや、今日はやめておこう」
偉かった。
とても偉かった。
それからしばらく。
入ってきた職員が、ソファのたづなを見て固まる。
理事長は人差し指を口元に当てた。
「静粛ッ」
職員は、そっと頷いた。
そして、退出した。
いつの間にか、理事長室の前には小さな貼り紙が増えていた。
駿川さん休息中。緊急以外は後で。
誰が書いたのかは分からない。
だが、字は少し震えていた。
たづなが目を覚ましたのは、それから一時間ほど後だった。
「……ん」
目を開ける。
天井。ソファ。布団。理事長室。
「……」
一瞬で理解した。
やってしまった。
たづなは、ゆっくり上半身を起こす。
そこには、椅子に座ってにこにこしている理事長。
「おはよう、たづなッ!」
「……理事長」
「よく眠れたようだなッ!」
たづなは、顔を両手で覆った。
「……申し訳ありません」
「謝ることはないッ! 休息は大事だ!」
「私が言う側だったはずなのですが……」
「たまには言われる側でもよい!」
理事長は、胸を張った。
たづなは、布団を見る。
危険な演出はない。
音声もない。
香りもない。
本当にただの布団状態。
それでも、十分だった。
「……入眠性能は、本物ですね」
「ほう!」
理事長の目が輝いた。
たづなは即座に言った。
「理事長は試しません」
「まだ何も言っていないぞッ!」
「言う前に分かります」
「むう……!」
やはり、起きて最初の仕事は理事長を止めることだった。
たづなは、少しだけ笑ってしまった。
身体が軽い。
胃の痛みも、少しだけ和らいでいる。
頭もすっきりしている。
「理事長」
「なんだ?」
「この装置は、危険部分を完全に取り外したうえで、睡眠研究担当と相談します」
「つまり?」
「安全な休息用寝具として、研究価値はあります」
理事長の顔が明るくなる。
「おおッ!」
「ただし」
理事長が固まる。
「最強メンタル計画ちゃん本人には、まだ余計な可能性を伝えません」
「む」
「伝えると、回復、睡眠、花、再生、フィジカルを組み合わせようとします」
「……それは」
理事長も黙った。
見える。
非常に見える。
「ですので、こちらで安全枠を作ります。普通の布団として。感動させず、過剰に幸せにせず、普通に休めるものとして」
「普通の休息、か」
「はい。普通に眠れて、普通に起きられて、普通に仕事やトレーニングへ戻れる。それで十分です」
理事長は、少しだけ柔らかい表情になった。
「たづなも、普通に休むべきだな」
「……はい」
今度は、たづなも反論しなかった。
その日の夕方。
最強メンタル計画ちゃんたちには、たづなから正式な指示が届いた。
睡眠改善装置について
一、危険演出ユニットは封印。
二、スピカさんに関わる音声・色・星・連想要素は使用禁止。
三、睡眠導入部分は、学園側で安全確認を行う。
四、今後の改良案は必ず事前提出。
五、朝は感動しなくていい。
六、普通の休息を目指すこと。
七、たづなさんも休むので、理事長は勝手に触らないこと。
最後の一文だけ、少し私情が混じっていた。
それを読んだ最強メンタル計画ちゃんは、真剣な顔で頷いた。
「普通の休息……」
後輩ちゃんも頷く。
「たづなさんも休む……」
同室の子は、ほっと息を吐いた。
「そう。普通でいいの」
最強メンタル計画ちゃんは、ノートを開く。
同室の子が即座に赤ペンを構える。
「何を書くの?」
「普通の休息について」
「……見せて」
ノートには、こう書かれた。
『V6.3案
普通の休息を支える。
感動させない。
活動できる朝。
たづなさんも休めるように。』
同室の子は、少しだけ黙った。
危険な匂いはする。
もちろんする。
でも。
今回は、ほんの少しだけ、方向がまともだった。
同室の子は赤ペンを入れる。
『まず相談。』
「うん。まず相談」
「褒める前に安全確認」
「よろしい」
その夜。
たづなは、いつもより少し早く仕事を切り上げた。
理事長が不思議そうに見る。
「今日はもう帰るのか?」
「はい。休息は大事ですので」
「うむッ! その通り!」
「理事長も、書類を片付けたら早く休んでくださいね」
「もちろんだッ!」
怪しい。
だが、今日は信じることにした。
たづなが部屋を出る直前、理事長が小さく言った。
「たづな」
「はい?」
「よく眠れて、よかったな」
たづなは少しだけ目を丸くした。
それから、柔らかく微笑む。
「……はい」
その日、たづなは普通の布団で眠った。
特別な音もない。
香りもない。
星もない。
スピカさんもいない。
ただ、静かで、暖かい布団。
それだけで、十分だった。
結果
- たづなさん、睡眠改善布団の誘惑に負ける
- ただし、危険演出なしの普通モードだったため安全に入眠
- 理事長は珍しく触らず見守る
- たづなさん、普通の休息の重要性を身をもって理解
- 睡眠改善装置は危険演出を外し、学園側で安全確認へ
- 指示書七番:「たづなさんも休むので、理事長は勝手に触らないこと」
- 次回危険予兆:V6.3「普通の休息」へ向かうはずだが、本当に普通で済むかは不明